2026年の干支「ひのえうま」の迷信はいつ生まれ、どんな影響を与えたのか? 

干支が理由で起こった出生減

 年末年始といえば干支に注目が集まる。干支とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種類の数詞からなる十干と、「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類の動物からなる十二支を組み合わせたものだ。十二支の方は年賀状でおなじみだが、干支は本来、十干と十二支を交互に組み合わせた最小公倍数の60からなる。そして、2026年は「丙午」(ひのえうま)の年だ。

 「ひのえうま」——この言葉に、なんとなく聞き覚えのある人は一定数いるのではないか。厚生労働省が公式サイトで公開している「出生数と合計特殊出生率の推移」を見ると、前回の「ひのえうま」の年、すなわち1966年(昭和41年)は、いきなり出生数がガクッと落ちている。(参考:厚生労働省/出生数と合計特殊出生率の推移

 前年である1965年の合計特殊出生率は2.14、1967年は2.23だが、なんと1966年は1.58だ。2020年代の現在は1.20台まで落ち込んでいるが、1960年代当時としては異例といえる。
この理由は何か? 「ひのえうまの年に生まれた女性は気性が荒く、夫を食い殺す」という謎の迷信があるためだ。この俗説はなぜ生まれ、なぜ広がり、どんな悲劇を生んだか……それを教えてくれる書物がある。当人も1966年生まれで、計量社会学を専門とするある吉川徹が、2025年2月に刊行した『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(光文社)だ。同書の内容を参考にしつつ、以下に「ひのえうま」をめぐる意外なエピソードの数々を紹介しよう。

ひのえうまは「新しい迷信」だった!?

 時は江戸時代前期、1662年に俳人の山岡元隣が著した俳諧集『身の楽千句』には、「ひのえ午ならずば男くいざらまし」(ひのえうまの女性でなければ男を食い殺すことはない)というフレーズがあるという。そして、『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』には、これより以前にひのえうまに関する迷信に言及した資料は見出されていないと記されている。

 その後、1683年に江戸で発生した「天和の大火」のおり、八百屋の娘お七は避難先の寺にいた小姓と恋に落ち、相手の小姓と再会したいために自作自演の放火事件を起こしたが、捕まって火刑にされた。この「八百屋のお七」のエピソードは歌舞伎・浄瑠璃の題材として広く知られ、お七はひのえうまの生まれだったとされることから、「ひのえうまの女は危険」という印象が拡散された(ただし、お七の正確な生年は不明)。その後、1726年のひのえうまの年から、ひのえうま生まれの女性を結婚相手として忌避する習慣が広がっていったという。

 日本では5世紀から干支が使われていた痕跡がある。けれども、ひのえうまに関する迷信が生まれたのは江戸時代であり、三百数十年ほどの歴史しかない「新しい迷信」だったのだ! 平安時代も室町時代もひのえうまの迷信など誰も知らなかったのである。

明治のひのえうまと戦争の影響

 江戸時代まで民間信仰には地域差が大きかったものの、明治期に入ると、新聞、雑誌といった大衆メディアの普及を通じて、年中行事や俗信の類も全国的に共通化していく。文明開化の時代とはいえ、当時の人々は令和の現在よりはずっと迷信深かった。

 ところが、意外にも1906年(明治39年)のひのえうまの年は、確かに出生率が少し低下したけれど、1966年(昭和41年)に比較すれば大したものではなかった。

 厚生労働省が公開している「人口動態総覧の年次推移」を参照すると、1965年と1966年の出生数の差はじつに46万2723人だが、1905年と1906年の差は5万8475人にとどまる。

 これはなぜだろうか? 『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』によれば、まず前年の1905年は、日露戦争が終結した年だ。出征した将兵が一斉に帰国し、おめでたい戦勝ムードとともに、今後も日本を強国にするため出産が奨励される気運が高まっていた。似たような事情で、第二次世界大戦の終結直後は多くの国でベビーブームが起こっている、敗戦国となった日本も同様だ。また、当時は第二次世界大戦後に比較して、避妊などの受胎調節も普及していなかった。

 付け加えて言えば、明治から戦前まで大多数の世帯は自営の農民や漁民や個人商店で、自家の子供を小学校卒ぐらいのまま働かせたり、跡取り以外の子は工場や鉱山に働きに行かせる例が多かったから、労働力として多くの子供が必要だった。そして現代のサラリーマン世帯とは異なり、農地や商店を継承するため家制度存続の意識が今よりずっと強かった(逆に、現在はこの意識がすっかり薄くなった点も少子化に影響している)。

 それでも、1906年生まれの女性たちが結婚を考える年齢となった1925〜1935年ごろの新聞記事には、多くのひのえうま生まれの女性が結婚難に悩んだり、そのため自殺した事例が報じられている。この時点でも「ひのえうまの迷信は根拠のない俗説だ」という論説は多くみられるが、偏見イメージを消し去ることはできなかった。

昭和のひのえうま生まれは勝ち組

 時は流れ、第二次世界大戦後の高度経済成長期、世の中は急速に第三次産業中心になっていく。高学歴を身に着けさせるため子供にかける教育コストは増大し、一世帯あたりの子供の数は2人が基本という状況になったところで、1966年のひのえうまを迎える。

 『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』には、ひのえうまを翌年に控えた1965年当時、多くの新聞、雑誌、テレビ番組で、ひのえうまの迷信を批判する言説が流布されたが、同時に1906年のひのえうま生まれの女性が味わった結婚難の苦労も広く報じられたとことが記されている。いかに「根拠のない俗説だ」という触れ込みでも、出産を考えている女性がこうした報道に触れれば気になったはずだ。また、平均寿命が伸びたことで、前回のひのえうま生まれの女性で存命中の人も多く、彼女らから直に苦難の体験を聞いた者も多かったようだ。

 この時期には、すでに避妊などの受胎調節も普及していたので、1966年中の出産を控えたり、出産が翌年にずれ込むようにするのは困難なことではなくなっていた。

 以上のような背景のもと、1966年の大幅な出生数減少が起こった。幸いにも、同年は人工妊娠中絶がとくに多いというデータはないという。

 ——その後、1966年生まれはどのような人生を送ったのか? 彼らが成人した1980年代にはひのえうまの迷信は忘れ去られ、女性が結婚難に苦しんだ話はほぼない。

 エッセイストで1966年生まれの酒井順子は、「私自身は丙午だから嫌な思いをしたことはない。社会的にみても有名な悪女がいるわけでも、離婚率が他の年より高いわけでもないだろう。私たちは「丙午に生まれても心配なく生きていける」という“壮大な実証実験”をしたようなもの」(『読売新聞』2023年4月6日)と述べたという。

 そして、1966年生まれは人口が少なく、学校でほかの学年より1クラス少なかった場合もあった。それだけ前後の学年より受験も就職も有利となる、しかも、大学卒業の1989年前後はバブル経済の絶頂期で、就職の条件ではもっとも特をしたはずの世代とされる。当然、それぞれ個人的な不幸はあったろうが、世代体験という大きな枠においては、後の就職氷河期世代と比較すれば圧倒的な勝ち組と見なせるだろう。

 ひのえうま生まれはラッキー! この逆説は、江戸時代以来、多くの女性を不幸にしたくだらない迷信を打ち消すために、大いに流布されてよいのではないか。

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 さて、『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』では、2026年のひのえうま年には、もはや極端な出生数の低下は起こらないだろうと予想している。

 その理由として、もとより避妊による受胎調節が定着して出生率がこれ以上削りようなく低下している、他人の出産や子供の生年に関する差別的な発言を許容しないポリティカル・コレクトネスの普及、1966年のひのえうま生まれが生年のために苦労した話がほとんどない事実、ひのえうまの迷信自体が知名度を失い、2025年初頭の段階でマスメディアやSNSでほとんど語られていない点などが挙げられている。

 果たして、60年ぶりのひのえうまを迎える2026年は、いかなる年になるのだろうか……。

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