『ヒカルの碁』なぜ打ち切られなかった? 異色の囲碁漫画が「ジャンプ」で大ヒットした理由

 『ヒカルの碁』といえば、『週刊少年ジャンプ』(集英社)の歴史にその名が燦然と輝いている大ヒット囲碁漫画。しかし冷静に考えてみると、囲碁というのは週刊少年誌においては決して有利ではない題材だった。

 それにもかかわらず、なぜ同作は打ち切られるどころか大きな成功を収めることができたのだろうか。本稿ではその理由について考えてみたい。

 同作はほったゆみが原作、小畑健が作画を担当した作品。平凡な小学生・進藤ヒカルが平安時代の天才棋士・藤原佐為の霊と出会い、囲碁の世界へと足を踏み入れるというストーリーで、塔矢アキラを始めとしたライバルたちと切磋琢磨していく姿が描かれる。

 努力・友情・勝利といった要素だけ見れば王道だが、少年漫画の題材として囲碁がニッチであることは間違いないだろう。ほとんどの読者は、連載が始まった当初囲碁のルールすら分からなかったはずだ。

 しかも『週刊少年ジャンプ』では競技系の漫画がヒットしにくい傾向にある。将棋などのボードゲームはもちろん、野球やサッカーといったスポーツですら長期連載になることが稀だ。ニッチなジャンルを扱う競技漫画という意味で、『ヒカルの碁』はかなりの挑戦作だったのではないだろうか。

 ではなぜそんな同作がヒットしたのか。まず1つ目のポイントは、主人公を「囲碁初心者」に設定したことにある。

 ヒカルは囲碁について何も知らない状態からスタートし、徐々にその競技の奥深さを学んでいく。すなわちほとんどの読者と同じ目線に立っているということだ。ヒカルの視点で物語が描かれているからこそ、読者たちは囲碁についての理解を徐々に深めていくことができる上、「勝ちたい」「認められたい」といった感情の動きにも自然と共感できる。

 もう1つ重要なのが、藤原佐為という“最強の師匠兼相棒”の存在。佐為は登場時点で作中最強格の棋士として描かれ、序盤から圧倒的な勝利を積み重ねていく。読者がまだ囲碁についての知識を身に付けていない段階から、勝利する感覚の気持ちよさを追体験させてくれる存在だ。

 なお、こうして最初から主人公サイドに最強の存在を置くという設定は、近年のジャンプ作品において定番化している傾向がある。たとえば『呪術廻戦』の五条悟、『鵺の陰陽師』の鵺、『魔男のイチ』のデスカラスとキング・ウロロなどが代表的だが、序盤から“作中の上限となる強さ”を提示する手法が一般化しているのだ。おそらく作者も意図していなかったはずだが、『ヒカルの碁』はその流れを2000年代初頭に先取りしていた。

囲碁を通して描かれる感情のドラマ

 さらに重要なのは、物語の焦点が「勝つこと」そのものではなく、「なぜ強くなりたいのか」という動機に置かれていた点だ。

 たとえば作中でヒカルが強く意識するのは、アキラというライバルの存在。初対面では佐為の力によって勝ったものの、自分と同世代ながらつねに棋士として前を行くアキラの存在感は、囲碁にのめり込めばのめり込むほど強くなっていく。

 他方でアキラも、ヒカルに佐為の影を見ながら、次第にヒカル自身の棋力や囲碁に向き合う姿勢に惹かれていく。お互いに相手に追いつき追い越そうとする関係性の“距離の変化”こそが、物語の核心だ。

 また試合描写に関して言えば、小畑健の作画が「盤上の思考」という目に見えにくいものを見事に可視化していたことを挙げておきたい。細かいルール説明を減らし、視線や表情、沈黙といった“見えない戦い”を描くことによって、囲碁という競技を感情のドラマとして読ませていた。

 まとめると、序盤から最強の存在を提示して読者を引き込みつつ、“強くなる理由”という感情のドラマへと誘導していくことが『ヒカルの碁』の魅力だったように思われる。

 勝敗や強さそのものより「強くなる理由」にスポットを当てることは、『呪術廻戦』や『鬼滅の刃』、『チェンソーマン』など、昨今の『週刊少年ジャンプ』に共通して見られる要素。『ヒカルの碁』はたんなる囲碁漫画ではなく、ジャンプ漫画の可能性を一気に切り拓いた作品だったのかもしれない。

 

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