宮﨑駿『風立ちぬ』のモデル・堀越二郎と零戦の“虚像”とは? 航空・軍事史研究者に聞く、知られざる実像
帝国海軍の主力として、太平洋戦争を戦った戦闘機、零戦。対米開戦のおよそ1年前に海軍での運用が開始され、太平洋戦争全期間を通じて各地で戦い続けた、まさに日本の軍用機を代表する存在である。
その知名度の高さを支えているのが、零戦が背負った一連のストーリーだ。そして設計者である堀越二郎の卓越した設計と当時の日本の工業力の粋を集めて製造された零戦は、開戦当初は敵なしの大活躍を見せ太平洋にその名を轟かせたものの、連合軍の物量と新型機に押されて次第に劣勢となり、場当たり的に改修が施されたが却ってその性能を低下させ、最後には爆弾を取り付けて特攻に使われた……という一連の悲劇的なストーリーは、今もなお広く語られている。
この通説とはいささか異なる「零戦の実像」を明らかにしたのが、イカロス出版から刊行されている『なぜ?から始まる零戦開発史』と最新刊の『どうして?で読み解く零戦発達史』だ。著者である航空史・軍事史・機械工業史研究家の古峰文三氏は、非公開のものも含む膨大な零戦関連資料を参照し、そこから得られた知見に基づいて零戦の開発・発達の歩みを検証。俗説や真偽不明の情報も入り混じる零戦の歴史について、地道な研究に基づいて光を当てている。
では、そもそも零戦とはなんのために造られた、どのような飛行機だったのか。そしてアニメ『風立ちぬ』によって広く知られるようになった零戦の設計者・堀越二郎とはどのような人物だったのだろうか。著者である古峰氏に伺ってみた。
■零戦はどのような飛行機なのか
──古峰さんが零戦に興味を持たれたきっかけは、どのようなものだったんでしょうか?
古峰文三(以下、古峰):同世代の多くの方々と同じく、戦記や映画、模型などで印象付けられたことがきっかけです。私の世代は、零戦もの、戦記ものの漫画をリアルタイムで読んだ最後の世代だと思います。あと、1番のきっかけはプラモデルですね。当時エルエスというプラモデルメーカーがありまして、ここの飛行機プラモは100円で買えたんです。エルエスの飛行機プラモの組み立て説明書はオイルショックで簡易なものになる前は40㎝四方くらいの大きさだったんですが、裏面にぎっしりと機体についての解説が書かれていて、零戦についての説明もそれで読みました。
──プラモデルが戦史を知る入口になったわけですね。では、古峰さんから見て、零戦とはどのような飛行機でしょうか?
古峰:一言で言えば「開発目的が明確で曖昧な部分が無く、目的達成のために造られた優秀な機体」だと思います。もう少し具体的に説明すると、零戦の場合はまず「敵観測機の掃討」と「攻撃機の撃攘」という明確な目的がありました。戦闘機に限らず、やらせたい仕事が明確に考えられている機械というのは、開発がうまくいくことが多いんです。
──「敵観測機の掃討」と「攻撃機の撃攘」というのは、どういった任務だったんでしょうか?
古峰:日本海軍は、日米両海軍による艦隊決戦に勝利することを大きな目的としていました。しかしワシントン海軍軍縮条約の結果、日本側の戦艦が10隻、アメリカ側の戦艦が15隻というバランスになってしまった。相手に5隻の優位があると、普通にやっても勝てないわけです。その状況で勝つために、日本海軍は「戦艦以外の武器を使って、こちらが一方的に相手を叩ける状況を作らなくてはならない」という結論に達しました。そのため、海軍航空隊は陸上攻撃機という名称で本格的な長距離雷撃機を作っています。この陸上攻撃機は、およそ6〜70機で攻撃を仕掛けることで、戦艦を一隻やっつけられるという見積もりでした。これを陸上から出撃させて、アメリカとの戦力差である戦艦5隻をなんとかして上回ろうとしたんですね。
■長時間飛行を目的として設計された理由
──戦艦の数が足りないという弱点を、航空機で補おうとしたわけですね。
古峰:零戦も、当初はそういった艦隊決戦のために作られた戦闘機です。艦隊決戦が実際に始まったら、開戦から戦闘が終わるまでの長い時間、具体的には6時間ほどは味方の戦艦の上空を飛び続けられて、こちらを攻撃しにきた敵機が来たらすぐにインターセプトさせたい。そして戦艦を攻撃するような大型攻撃機を撃墜できるように、口径20㎜という大きな機関銃を積みたい。まずそういう具体的な目的があって、それを実現するために設計されたのが零戦なんです。
──海軍が当初考えていた零戦の使い道というのは、艦隊決戦のための補助的な役割だったんですね。
古峰:補助というよりは、艦隊決戦を成立させるための必須条件が零戦だった、ということですね。特に「敵観測機の掃討」という計画要求書の要求事項はかなり厳しいものでした。掃討というのは、とにかく一機も残さず全部落とせということなんです。一機でも観測機が味方艦隊の上空に残っていたら、そこから弾着状況を報告されてしまう。そうなると、ただでさえ数の少ない日本の艦隊はどんどん消耗してしまうんです。だから日本としては、自分たちの航空観測はちゃんとやりつつ、敵の航空観測は必ずシャットアウトしたい。そうやって非対称な戦い方をすることで、劣勢をなんとかしようと考えていました。
──零戦を使ってアメリカ側の目をふさいた状態で、一方的に攻撃を仕掛けられる状況を作ろうとしたわけですね。ただ、日本が考えていたような艦隊決戦は実際には発生せず、零戦も計画段階の用途とは違う使われ方をしました。その用途の変化は、どのようなものだったんでしょうか?
古峰:今お話ししたように、元々零戦は「戦艦の上空に6時間滞空できる」という性能が求められていた飛行機でした。短時間で燃料が切れてそのたびにいちいち補給していたら、その間に敵機が飛んできた時に対応できない。だからずっと空中で待機していなくてはならない……という飛行機です。ということはつまり、滞空時間である6時間に巡航速度をかければそのまま航続距離になりますよね。ということで、零戦が非常に長距離を飛べる飛行機になるということは、開発段階からわかっていました。その当時日本軍は日中戦争の最中で、中国大陸の奥地、武漢から重慶や成都に向けての長距離爆撃を行っていたんですが、航続距離が長ければその爆撃の護衛につけられるということで、零戦は艦上戦闘機として開発されながら、最初は陸上基地に配備されて爆撃機の護衛に回されたんです。
──「長時間飛べる」という艦隊決戦向けのスペックが、全く別の使い道で役立ったわけですか。
古峰:そういうことです。零戦は日中戦争でこういった戦い方ができることがわかったんで、太平洋戦争開戦時には台湾からフィリピンのマニラ近郊にあるクラーク・フィールド飛行場まで往復するとか、そういった長い距離の侵攻作戦に投入されました。もちろん零戦だけが飛んでいくわけではなく、海軍の大型攻撃機も一緒に飛んで行って爆撃を行なっている。ですから、零戦は「味方の打撃力を確保する」という、本来の戦闘機の仕事をちゃんとやっていたんです。
──では、緒戦でそういった使い方をされた零戦が、最後の最後まで海軍の戦闘機として長く使われたのは、どのような理由からだと思いますか?
古峰:これは20㎜の機銃を積んでいたというのが一番大きいでしょうね。20㎜というのは「一番小さい口径の大砲」ですから、戦闘機だけではなくB-25のような大型爆撃機も撃墜することができました。戦争後半になって大きい敵機を相手にすることになっても、攻撃力を維持できたというのは大きいと思います。陸軍には隼という戦闘機がありますが、この戦闘機はこういった大口径の武装を積んでいなかったゆえにちょっと苦労して、昭和19年くらいから戦闘機としての任務からはだんだん外されて、爆弾を搭載した戦闘爆撃機的な使われ方に変更されています。零戦にはそういうことはありませんでした。これはやはり、「大型爆撃機対策として20㎜機銃を積む」という当初の明確なコンセプトが有効だったのだと思います。