人はいかにして「無課金おじさん」になるのかーー速水健朗が考える、ラーメン「全部のせ」
ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。
第28回は、『ラーメンと愛国』(2011年/講談社現代新書)という著作を持つ速水健朗が、ラーメンの「全部のせ」と贈与について考える。
「環七ラーメン戦争」の真っ只中で
これは少なくとも僕の世代の話だが、当時は18歳で自動車免許を取るのが当たり前だった。それまでは受験や門限、校則など、さまざまな縛りの中で生きてきたのが、一気に解放される。そして、実家に車がある友人を中心に、毎晩のようにドライブに出かけるようになる。18歳になれば行動範囲は一気に広がり、遊べる時間も無制限になる。ただし、そんなにお金はない。ではどこに行くかといえば、深夜営業のラーメン屋だった。
ちょうど「環七ラーメン戦争」の真っ只中。世田谷の環七沿いには「なんでんかんでん」などの行列ができる有名店が並び、店の前にはズラリと路上駐車が続いている。ついには交通事故の犠牲者まで出て、「戦争」と呼ばれるようになった。もう一つ、よく行ったのが恵比寿周辺のエリアだ。恵比寿は都心だが、なぜか車で夜中に行く場所だった。「恵比寿ラーメン」「らーめん香月」「九十九ラーメン」。「博多一風堂」の路面店も進出してきた。ラーメンを食べたあとは、必ずTSUTAYAに寄った。当時の恵比寿TSUTAYAは、特別な品揃えでわざわざ行く価値のある場所。芸能人に出くわすことも少なくなかった。
深夜のラーメンの記憶といえば、自分が20代後半、90年代末に週刊誌編集者だった頃のことを思い出す。金曜日の夜が入稿の最終タイミングで、深夜0時を過ぎた頃、急に1時間ほどの空白時間が訪れる。デザイナーやデスクに校正を回し、原稿が手元に戻ってくるまでの“待ち時間”。そのすき間を狙って、何人かで車に乗り、ラーメンを食べに出かけた。どうせ終電では帰れないので、車で来ている部員も多かった。
この頃、人生で初めて「全部のせ」というメニューの存在を知った。1997年か1998年、原宿で深夜営業していた「九州じゃんがら」でのことだ。僕が味玉のトッピングだけで注文したとき、後輩の編集者モリウチくんが、「速水さん、“全部のせ”じゃないんですか?」と驚いたように言ったのを、今でもはっきり覚えている。僕はそのメニューの存在すら知らなかった。軽々しく使いたくない言葉に「カルチャーショック」があるが、このときばかりはそれだった。その日を境に、ラーメン屋では迷わず「全部のせ」を頼むようになった。ただ、1年半ほど経った頃、ふと我に返ってやめた。
子どもの頃、誕生日に欲しいものがたくさんあっても、選べるのはひとつだけだった。それは、贅沢を我慢するというだけの話ではない。「ごほうび」というのは、100パーセント叶わない方がいい、という教訓が込められていたはず。
PUFFYの吉村由美の『V.A.C.A.T.I.O.N.』(1997年、小西康陽作詞作曲)という曲は、この当時の流行歌で「自分へのごほうび」についての歌だ。「どこかで格安チケット手に入れて」というフレーズが肝心で、このごほうびはファーストクラスじゃない。格安だからこそ成立する「ささやかさ」がある。