「人間の極限が見えてくる場所」長崎在住半世紀の作家・下妻みどりが語る、歴史と文化

 日本列島の西の果てに位置し、鎖国時代に世界との窓口として独自の歴史を刻んできた長崎。その辺境としての魅力を掘り下げた一冊『すごい長崎 日本を創った「辺境」の秘密』(新潮社)が刊行された。長崎在住半世紀の作家・下妻みどり氏が、出島、キリシタン弾圧、長崎くんちなどの歴史について綴っている。特に中沢新一氏が提唱したアースダイバー的な観点からアプローチをすることで、人間の生きる姿に迫りたかったと語る下妻氏に、長崎の歴史から見えてくるものについて話を聞いた。(篠原諄也)

異国の文化と接触してエネルギーが生まれた地

ーー本書執筆のきっかけを教えてください。

下妻:この本を書いたきっかけの一つは、(長崎の祭り)くんちのクレイジーさは何なのだろうと思ったことでした。小さな町の単位ごとにそれぞれが出し物をするんですが、どうしてここまで熱を入れるんだろうか、何が彼らをそうさせているんだろうかと気になったんです。

 一般的に祭りというと「お神輿が好き」「人に感動を与えたい」という思いがあると思います。でもそれだけでは割り切れない熱量が、くんちにはある気がしました。祭りは街や人の過去の記憶を表すものですが、くんちにおいてそれはどのようなものなのか。今ある長崎の歴史の本を読んでみても、いまいちわからないんです。

 キリシタンの街だった長崎で禁教が行われ、人々の心が荒んでしまったのをまとめるために、くんちが始まったとされています。あるいは、キリシタンを抑えるため・成敗するために始まったという言い方もされます。でも成敗されたのは、それまで街に住んでいた人たちなんです。そういうキリシタンのことはこれまで語られづらかった。キリシタンとして長崎の街を作ってきて、禁教を言い渡され、踏絵を踏み、嫌々ながらくんちを始めたとはどういうことなのだろうか。私はそこにわけいっていきました。

 そして、今のくんちがこんなに激しいのは、遠い遠いキリシタンだったときの記憶が、どこかに表れているからだという結論に達しました。ずっと蓋をして隠してきたこと、つまり自分の足で踏み続けてきた、自分たちの記憶が出ているということだと思うんです。それは単に長崎の歴史を語ることではなくて、自分が信じてきたものを諦めなくてはいけない人間、いろんな困難を乗り越えて生きていく人間を見つめるという、普遍的なテーマに繋がると思いました。

ーー長崎を通して、人間とは何かに迫ったのですね。

下妻:私は長崎マニアでもないんです(笑)。郷土史マニアでもないし、いまだに年号も覚えられない。でも、人間とはどういう生き物なんだろうと考えるときに、嫌な言い方をすれば、長崎はすごくいいフィールドになる。長崎で起こってきたこと、人々が経験してきた思いというのは、日本中、そして世界中の人にヒントや希望を与えてくれると思っています。

 長崎には異国の船が入ってきました。それは中央からは離れたところで受け入れるほうが都合がよかったからです。現代で原発が東京に作られないのと一緒ですよね。しかし、そんな長崎でしか生まれないエネルギーもあるのが、面白いところです。本の副題にある「辺境」という言葉には、地理的な意味もあれば、心理的な意味もあります。異国の文化との接点で表れる火花、そしてエネルギーが長崎にはある。それはその時々の日本を表してもいました。

ーー長崎らしさとはどういうものでしょうか。

下妻:例えば、殉教したキリシタン、あるいは棄教したキリシタンがどんな思いだったか、それはわからない。想像しようもないんです。キリスト教が日本に入ってきたものの、結局は日本としては受け入れられないという答えを出す。そのせめぎ合いが長崎ではいろんな形で表れてきました。「中央」が人々の信仰を理由に殺すという悲劇なんですが、文献には殉教する人たちは嬉々として死んでいったという描写もあるんです。

二十六聖人殉教地。豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって、26人のキリシタンが処刑された。(下妻氏提供)

 殉教で死にゆく人たちは、周りの人たちに「泣かないで」と話す。なぜなら、自分たちはものすごく喜んでいるからと。もう踊らんばかりに喜んだという記述があるんですよ。そして火炙りになっても、聖歌を高らかに歌いながら死んでいった。肉体は焼けて声が途切れるんだけれども、死ぬほうも見ているほうも、大熱狂のうちに行われた。その一筋縄ではいかない、一面的には語り得ない人間の精神が顕在化する。しかもそれは、私が住んでいる場所のすぐそばで起こったことだった。そんな長崎の歴史を見ていると、人間の極限のようなものが見えてきます。この世とあの世の境目じゃないけれど、普通の暮らしをしていては見えないような人間の一面が見える。それが長崎らしさだと思います。

二十六聖人の像(下妻氏提供)

 歴史の教科書に載っているようなことで言えば、まずポルトガル船が来て、港ができて開かれました。それでキリシタンの町ができたものの、禁教となった。次から次に出来事があるわけですが、そこでは人が生きていたんです。殉教する姿を見ながら、次は自分かもしれないと思っている。自分も後に続くこともあれば、踏み絵を踏んで挫折することもありました。だから長崎は殉教できなかった人、つまり挫折者の街なんですね。自分が信じていたものを捨てて踏みつけて、それでも生き抜いてきた。その挫折感や屈折をもう一度語り直すことで、見えてくるものがあると思いました。

 現代の日本のある種の意地悪さや真実を見つめようとしない姿勢、そういうものの根っこの一つが、長崎に表れていると思うんです。日本全国の人がキリスト教を信じていたわけではありません。でも「中央」が誰かが信じているものを禁じ、人々は信じていたものを否定しながら生きる。それをよしとしてきた上で、江戸時代は成り立っている。そのように人の思いを踏みつけた上に、現代の日本の社会がある。だから日本人の無意識のなかに影を落としています。戦時中も、人を非国民と決めつけて迫害するようなことがありました。そういう側面のルーツのひとつだと自覚すれば、少しは改善できるかもしれない。それはこの本の隠されたテーマですね。

長崎くんちが熱狂的である理由

ーー本書では弾圧の代表的な例として、絵踏みが解説されていました。

下妻:キリシタンを弾圧するためにいろんな方法がありました。例えば、キリシタンであることを摘発するとお金がもらえる「訴人褒賞」、1人のキリシタンが見つかれば近隣の者も処罰する「五人組」などの制度がありました。そのなかでも、絵踏みは人の心に及ぼす作用の深さと暗さという意味ではちょっとレベルが違います。ものすごく残酷で、自己肯定感を下げていく。本当にかわいそうだったと思います。

 実は私もどのような気持ちになるのか知りたくて、イエスさまやマリアさまの絵を踏んでみようかと思ったことがあります。でも、いざ踏もうとすると、私はクリスチャンでもないんですが、何か取り返しのつかない傷がつくような気がしてやめました。これは日本人だからなのかもしれません。江戸時代の出島に来ていた商館長は、日本人は大切なものに足をかけることをすごく嫌うということをわかった上で、絵踏みをさせている、と報告しています。本当に悪魔のような思いつきだと思います。

 絵踏みが始まったのは1629年前後だと言われていますが、すでに禁教からは15年ほど経っていました。その間には激しい殉教も起こっています。一番殉教者の数が多いピークは1633年なのでその数年後です。町の人々はキリシタンで「殉教上等」という心持ちでいたはずなんです。でも、結局、そうはならなかったのは、私は絵踏みがものすごく大きく作用したんじゃないかと思っています。彼らの心をとても深く傷つけたはずです。

 「これは形だけだ」と考えることもあったでしょう。その後、隠れキリシタンとして生きていく人たちは、踏んだ足を洗ってその水を飲んだりすることで、自分たちを許していくわけです。そこでの屈辱感や後悔、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちがあったはずです。もう割り切って、貿易の仕事で金儲けをするかと考えた人もいたでしょう。でも貿易の仕事にしても、それまで長崎の人たちは自分たちで船を出して好きなようにできたのが、鎖国の時代になると基本的に荷捌き業務になりました。つまらない仕事だけれど、そこそこ儲けて祭りも楽しくやって生きていくしかない。そういう思いがあったのかなと思います。

ーーそれが長崎くんちという祭りの盛り上がりにつながったそうですね。改めてどういう祭りなのでしょう。

下妻:初めはキリシタンだった住民たちに、棄教して諏訪神社の氏子になりなさいということでした。祭りに参加しなさい、参加しないものは焼き殺しますよ、と。参加することが「自分たちはもうキリシタンじゃありません」と表明する、一種の絵踏みだったわけです。その行列を新旧の奉行が見届けていました。つまり、非常に政治的で管理的な始まり方だった。

 でも人間というのは面白いもので、祭りを続けているうちにどこかで自分たちのものにして楽しむようになります。最初は強制されて嫌々始めたくんちのなかに、意識的なのか無意識的なのか、自分たちの昔の生きた証が表れてくる部分がある。そこに長崎の人のしたたかさ、人間の生きる力がある。あの祭りは長崎の町や人に必要なものだと思うんですよね。

ーー今でも出し物が知られていますね。

下妻:もともとくんちは、諏訪・森崎・住吉の三体の神様が、諏訪神社から大波止のお旅所に行って帰ってくるという構造なんです。現代は「龍踊」や「コッコデショ」などの出し物が有名で、オランダ船や唐人船が主役のように見えていますが、あくまで神輿のお供の賑やかしなんです。神社の祭りの本質からすれば、おまけにすぎない。でも長崎の人はその形を借りて、自分たちそのものの祭りにしてきました。

 江戸時代から神輿があって、それぞれの町がいろんな趣向を凝らしたお供の行列をしていました。それがだんだん途中で踊るようになってくる。それで今の踊りのなかには、御朱印船や南蛮船が見られます。これはめちゃくちゃ面白いと思っていて。キリシタン・海外渡航の自由を禁止するために始まったはずなのに、時代が流れ流れて、長崎の人が出していた御朱印船、ポルトガル人が乗ってきた南蛮船が現れてきて、太鼓にはイエズス会の紋章が描かれたりしているんです。

くんちの日。人の波間に現れた御朱印船(下妻氏提供)

 長崎の人たちは自分たちの精神を形作っていたキリスト教を禁止され、それを足で踏めと言われた。でもそこから、一から芽吹いて育ってきたものがある。屈折したものを自分たちの祭りにすることで、発散したところがあるのでしょう。人間の精神の実験みたいなものです。くんちがなぜこんなに熱狂的なのか。それは今を生きている、くんちに関わる人たちだけを見ていても、説明がつかないんです。この地に眠る者たちが、そうさせている部分があると思っています。

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