澁澤龍彥『暗黒のメルヘン』新装版として復刊ーー編者としての異才が発揮された日本幻想文学のアンソロジー

幻想文学とは、この世とあの世を接続する装置

  ところで、先ほどから私は、「幻想文学」という言葉をいささか安易に使っているのだが、そもそも「幻想文学」とは何か?

  もちろん、狭義には、非現実的な――つまり、夢のような世界を描いた物語ということになるだろう。しかし、多かれ少なかれ、小説(物語)というものは、作者の「幻想」を描いたものなのではないのか。

  澁澤龍彥も、「幻想文学」という言葉の曖昧さ(あるいは自由度の高さ)を認めたうえで、「幻想文学について」というテキストの中で、次のように述べている。「幻想文学のテーマにもいろいろあるが、そのなかで、死あるいは彼岸の要素を含んでいないものはないと言ってよい」(『澁澤龍彥全集10』河出書房新社・所収)

  この、「死あるいは彼岸」という言葉を別のいい方で表わすなら、「あの世」ということになるだろう。じっさい、『暗黒のメルヘン』に収録されている作品の多くは、泉鏡花「龍潭譚」から大坪砂男「零人」にいたるまで、ふとした拍子に、この世とあの世の境界線を踏み越えてしまった者たちの物語である。

 「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」といったのは江戸川乱歩だが、「よるの夢」――すなわち、「小説」の中にこそ、“真実”はある。また、かつてヨーロッパ語圏では、この世の森羅万象は神の言葉の表われであるのだから、目の前の現実よりも、芝居などの方が“ほんとうの世界”に近いのだという考え方もあった。

  いずれにせよ、『暗黒のメルヘン』のページを一枚一枚めくっていけば、あらためて、「物語」を読むことの面白さに気づかされるだろう(収録順はそれなりに考えられているのだろうが、基本的には、どの作品から読み始めてもいいと思う)。

  なお、同書に収録されている各作品については、澁澤が「編集後記」の中で簡潔ながら的確な解説文を書いているので、そちらを参照されたい。個人的には、三島由紀夫による謎めいた少年と父親と“あの人”の物語「仲間」と、萩原朔太郎「猫町」を彷彿させる日影丈吉「猫の泉」を推したい。

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