押井守『イノセンス』原作コミック『攻殻機動隊』とはどう違う? ポイントとなる「人形」への感情移入
原作版とは大きく異なる物語の雰囲気
漫画版『攻殻機動隊』では、テクノロジーによる現実の変化自体にはなんの疑いも存在しない。人々はほとんど享楽的といっていいほどあっけらかんと身体改造や電脳空間を受け入れており、どこまでが人間か、どこまでが自分かといった悩みを持つ段階はとうに過ぎている。一方で電脳化を拒むキャラクターもちゃんと配置されており、「どこまで自分の体を機械化するかは自分の勝手」「技術による変化を社会の前提にして、楽しむべきところは楽しみ、取り締まるべきところは取り締まる」という考えが作中の常識となっている。そういうルールの中で犯罪と戦うプロフェッショナルの姿を描いたのが、原作版だ。登場人物がウジウジ悩まず全体的にノリが明るくてドライだから、時折挟まれるコメディタッチな描写も違和感なく馴染むし、素子が人形使いと一体化する終盤の展開にも悲壮感はない。
一方で映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』や『イノセンス』作中での常識のありようは、まだまだ我々の社会に近い。義体化され電脳化された人間は、いったいどこまで人間なのか……という問いに対して、ず〜っと考えあぐねている状態である。おまけに『イノセンス』のバトーは素子に去られ、よりウジウジした状態になっている。漫画版ではそんな問いはすでにほぼ人類全員が通り抜けているし、バトーの素子に対する感情も「頼れる同僚」くらいの温度感だ。原作とはドライさが全然違うし、映画版は「常識」の温度感が現在の人間社会に近い。
原作漫画では「常識」が書き変わってしまっているからこそ、バトーはトムリアンデを暴走させた少女に極めて常識的なセリフを言う。ロボットや義体化に妙な感情移入をする人間はこの世界にはおらず、ロボットはロボット、あくまで工業製品であるというドライな常識が隅々まで浸透している。だからこそバトーは「犯罪を防止する」という自らの職業的視点から、暴走したロボットが犯した犯罪と人的被害にフォーカスしたセリフを少女に叩きつけた。ロボットや人体に対する常識が根本的に我々と異なる原作漫画の作中において、「ロボットを暴走させる」という行為には「犯罪」以上の意味がないのである。
しかしウェットに悩み続けるバトーが主人公の『イノセンス』では、ロボットや犬に対して過剰な意味づけがなされ、最終的に「人間なんかより、望まないのにゴーストを吹き込まれた人形の方がかわいそう」という結論に達してしまっている。作中の常識や登場人物の感覚がより我々に近いぶん、逆に「どこまでが人間でどこからがロボットか」という線引きが曖昧になり、ロボットの暴走という犯罪に対して過剰な反応が引き起こされ、かなり過激な結論が導き出されたのだ。
そうなると、『イノセンス』冒頭に引用された『未来のイブ』の「われわれの神もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか」という一節は、実によくこの映画のメッセージを捉えている。この「愛が科学的でもいいだろうが! 人間より人形に感情移入してもいいだろうが!」という開き直りが、この映画のストレンジな味わいになっていると思う。
あらためて両者を鑑賞すると、「同じストーリーをベースにしてるのに、よくもまあここまで違う結論になるものだ……」という気持ちになる。個人的には享楽的でハイテンションな原作版のテイストが好きだが、ジメジメした悩みから強烈な開き直りをかます『イノセンス』の結論にもグッとくる。4K版上映によって初めて『イノセンス』を見たという人も、原作版を是非とも読んでほしい。両者の間に横たわる「作中の常識の差」に、きっと驚くはずだ。