押井守『イノセンス』原作コミック『攻殻機動隊』とはどう違う? ポイントとなる「人形」への感情移入
コミック版「ROBOT RONDO」と比較
そんなウェットでエモーショナルな『イノセンス』にくらべると、コミック版の「ROBOT RONDO」はずっとドライだ。そもそも原作『攻殻機動隊』は『マイアミ・バイス』のようなリアル寄り連続刑事ドラマのような味わいが濃く、「ROBOT RONDO」もその1エピソードといった趣がある。
原作では、暴走した美少女型ロボット「トムリアンデ」に襲撃されるのは軍人の殿田大佐だ。さらに同じトムリアンデ型の暴走が頻発。高位の軍人が襲撃されたことからテロの疑いがあるため、公安9課が調査を開始するも、早々にトムリアンデの暴走は一般的な事故であったことが判明する。が、トムリアンデの内部にはSOSのサインがあった。誰がなんのために残したサインなのか突き止めるため、トグサとバトーの2人が製造元の阪華精機を調査するも、2人の目の前で阪華精機の出荷検査部長が狙撃されてしまう。狙撃犯を拷問したバトーは、阪華精機の犯罪行為の手がかりを得る。
『イノセンス』と比べるとバトーとトグサのやりとりもグッと軽妙。先輩であるバトーと、反抗的な後輩のトグサがともに捜査にあたるという、バディもの的な面白さがあるエピソードでもある。話の中に素子は登場するものの最初と最後だけであり、途中の捜査はバトーとトグサが担当していることから、素子が姿を消した後を描く『イノセンス』のベースとなったことも納得だ。
『イノセンス』とこの『ROBOT RONDO』には相違点が数多く存在するが、最も大きなポイントは「人形」に対する取り扱いだろう。『イノセンス』は孤独な生活を送るバトーが人間性の拠り所としている存在として「犬」を設定しており、その犬と同列の存在として登場するのが「人形」である。どちらも、そもそも人間が人間であるとはどういうことかが再定義された時代に人が拠り所とする存在。作中でその重みは等価だ。「人間は本質的に孤独であり、犬か人形に依存しなくては生きていけるはずがない」という半ば開き直りのようなメッセージが込められた作品であり、それに『イノセンス』というタイトルを付けるとは、言いも言ったりという感じである。
その重みが込められているのが、ラスト付近のバトーのセリフだ。ゴーストダビング装置から被害者の子供を助け出したバトーは、子供達が助けを呼ぶためにゴーストをダビングされた人形を暴走させていたことに対して、感情を込めたセリフを吐く。曰く「犠牲者が出ることは考えなかったのか。人間のことじゃねえ。魂を吹き込まれた人形がどうなるか考えなかったのか」である。バトー、完全に人形に感情移入しちゃってるじゃん……。助け出された少女にしても身勝手ではあるのだが、他に方法もなかったはず。「だって、私は人形になりたくなかったんだもの!」と泣き崩れてしまう少女の姿が、なんだか不憫である。
一方、「ROBOT RONDO」の同じ部分では、バトーのセリフはずっと常識的である。引用すると「被害者が出るとは考えなかったのか?」「8体のトムリが要人襲撃1件 殺人2件 障害12件 その他 山ほど軽犯罪を犯した」「お前達がやらせたんだ わかってるのか!?」というものだ。少女の返答も「そんな! 先に 私達に悪いことしたの 外の人達だもの……」というものになっており、「そりゃそうだけどさあ……」「どうすればよかったんだろうね……」とやるせない気持ちになるやりとりだ。
「ROBOT RONDO」のバトーは『イノセンス』に比べるとグッと常識的で、「ロボットに感情移入しまくっているヤバいサイボーグ」という言動は皆無。犯罪を防止するという自らの仕事に忠実なセリフを口にしている。これはおそらく、原作と映画版での「常識」の書き換わり方に違いがあることが原因だ。