【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第7回:21世紀の起源――人間がメディアである

3、ソーシャルがメディアである

 では、これらの発明が合成されたとき、メディアと社会には何が生じたのか。それを問題にしたのがボードリヤールである。およそ半世紀前の彼の論考では「マスは他のいかなるメディアよりも強力なメディアである」「マスとメディアとは単一のプロセスである」と指摘される(※4)。つまり、彼は新聞やテレビのようなマスメディア以上に、実はマスそのものがメディアだと挑発的に断言したのである。

 ボードリヤールはこのマス=メディアの台頭を「社会的なもの」の勝利と関連づけた。もともと、ルネッサンス期に神の権威をあてにせず、人間どうしの利害調整と権力のコントロールを構想する「政治的なもの」の知が勃興した(マキャヴェリ)。だが、18世紀の啓蒙思想とフランス革命を契機として、この「政治的なもの」は「社会的なもの」に取って代わられる(※5)。つまり、専制君主や貴族ではなく、ブルジョアの市民が集団(マス)として力をふるうようになる。先述した≪世界を人間に似せようとする欲望≫は、まさにこのブルジョア社会の拡大から生じたものである。

 この新興の大衆社会は、ひとまずマス=メディアによって輪郭づけられる。ただし、ボードリヤールはそこに奇妙な反転現象を認めた――すなわち、マスそのものが強力な社会となったとき、むしろ社会は消えるというのだ。ボードリヤールによれば、あらゆるマスメディアは二つの方向性をもつ。メディアは外面的には「社会的なもの」をより多く生産するように見えるけれども、内部的にはむしろ、社会的な諸関係を無効化してしまうのだ。ゆえに、社会を生産するメディアが、そのまま社会を破壊する力となる。ボードリヤールはそれを「すべてはリバーシブルである」と形容した(※6)。

 この抽象的な謎かけのようなボードリヤールの洞察は、かつてのマスメディアのみならず、今日のソーシャルメディアの本質をも見事に浮き彫りにしている。実際、21世紀に出現したのは「ソーシャルなメディア」ではなく「ソーシャルがメディアである」という奇妙な状況であった。そして、ソーシャルメディアは社会のまねをし、社会のエネルギーや記号を貪欲に吸収し続けるが、まさにそのことによって、旧来の社会的なものの常識を次々と決壊させている。社会をつくることと壊すこと、人間どうしの関係を豊かにすることと貧しくすることが、まさに「リバーシブル」になる――それは、われわれがリアルタイムで目撃している情景ではないか。

 ボードリヤールは、社会がマスメディアによって脅威にさらされることをいち早く見抜いていた。そして、このマスメディアが21世紀のソーシャルメディアに代替されたとき、既存の社会科学の知見はいっそう役立たなくなる。「善き社会とは何か」という問いへのコンセンサスは消滅し、カオスの激流のなかで、社会を学問的に制御できるという信念も解体される。ちょうどウロボロスの蛇のように、ソーシャルが社会を食べてしまったのだ。

※4  Jean Baudrillard, In the Shadow of the Silent Majorities, Semiotext(E), 1983, p.44. 

※5 ibid., p.17.

※6 ibid., pp.65-66.

4、事実を凌駕するシミュレーション

ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(法政大学出版局)

 こうして、19世紀から20世紀にかけてマスがメディアになったとしたら、21世紀にはソーシャルがメディアになった。それは事実上、人間そのものがメディアになったということと等しい。マルクス&エンゲルスがグローバル資本主義の≪世界を人間に似せる≫欲望を発見したとしたら、ボードリヤールはインターネット時代の≪メディアを人間に似せる≫欲望を予告したのだ。

 改めて言えば、ソーシャルメディアは1820年代の出版革命、1830年代の写真や計算機の発明、1840年代の電信の実用化に始まる、マスメディアの進化の帰結である。それは過去のいかなるメディアよりも民主的なメディアであり、マスメディアの一つの完成形である。しかし、ソーシャルがメディアになるとき、かえって旧来の社会が内側から解体される。もとより、あらゆる社会は社会のふりをしているにすぎないが、ソーシャル=メディアはそのことを包み隠さずあからさまにしてしまう。

 そして、この社会を食べるソーシャルメディアでは、断片的なデータから即興的に「生成」されたシミュレーション(予測)が、客観的な事実に根ざしたコミュニケーションをはるかに凌駕する。現実よりも現実のシミュレーションのほうが、今やずっと強い影響力をもつ――それは巨大地震や気候崩壊の予測から、デマや陰謀論、モキュメンタリーの謎解き競争、さらには世間を賑わすスキャンダルに到るまで、すべてに共通する傾向である。いわば光を照射されて異様に長くのびた不気味な「影」のように、シミュレーションは恐怖と魅惑の源になる。最終的な結論には、もはや誰も見向きもしない。それよりも、事実の切れ端からさまざまなシミュレーションを立ち上げることが、はるかに強烈な頭脳的刺激になるのである。

 われわれは、影(シミュレーション)が本体をハイジャックし、操作し、横領する時代に生きている。その意味では、21世紀という「鏡の世紀」は「影の世紀」と呼んでもいいだろう。人間ではなく人間の影、社会ではなく社会の影、事実ではなく事実の影――われわれはそれらの影が人間そのもの、社会そのもの、事実そのものとは必ずしも一致しないことを、実はよく知っている。それでも、影の恐怖に魅了される人間はあとをたたない。ボードリヤールが述べたように「有効に作用するのはシミュレーションであり、決して実在ではない」からである(※7)。

※7 ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(竹原あき子訳、法政大学出版局、1984年)74頁。

関連記事