【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第2回:探索する脳のミメーシス

 21世紀のメディア論や美学をどう構想するか。また21世紀の人間のステータスはどう変わってゆくのか(あるいは変わらないのか)。批評家・福嶋亮大が、脳、人工知能、アート等も射程に収めつつ、マーシャル・マクルーハンのメディア論やジャン・ボードリヤールのシミュラークル論のアップデートを試みる思考のノート「メディアが人間である」。第2回では、検索や生成AIが、人間にとってどのようなものなのかを考える。

第1回:21世紀の美学に向けて

1、生成AIは検索を駆逐するか?

清水亮『検索から生成へ』(エムディエヌコーポレーション)

 2022年末にChatGPTがリリースされてから、生成AIが社会や経済にパラダイムの変化をもたらすという言説がとみに目立つようになった。例えば、プログラマーの清水亮は『検索から生成へ』と題した本で、グーグルの牽引した「検索の時代」は終わり、今後は「生成の時代」に入ると主張している。清水によれば、検索が「人間の知的作業のごく一部分」を担うだけなのに対して、生成AIはそれよりもずっと多くの活動を代行できるというのだ(※1)。

 もっともらしいシナリオだが、検索は本当に今後衰えるだろうか。清水は「生成」と「検索」を相互に排他的な関係と見なすが、それは正しいだろうか。私はそれには大いに疑問がある。仮に生成AIが将来的にもっと広く普及し、従来の労働のオートメーションを推し進めたとしても(※2)、それによって人間が検索しなくなるとは私には思えない。

 そもそも、われわれはなぜ検索してしまうのか。それは「あまりにも多すぎるデータのなかで、欲しい情報に迅速にたどりつきたいから」という単純な理由には還元されない。グーグルが覇権を握ったのは、おそらく脳の機能と関わっている。

 興味深いことに、睡眠研究者の上田泰己は、脳は覚醒時にもっぱら「探索」をやり、睡眠時にその集めた情報を間引いて「選択」しているという説を唱えている。覚醒した脳は、神経学的には「覚える」ことよりも「探す」ことに最適化されているという上田の説は、情報社会のあり方を考えるのにも参考になるだろう(※3)。なぜなら、この説明を信じるならば、グーグルのサービスは、探すことに最適化された脳に適応したということになるからだ。清水は検索が知的活動のほんの一部にすぎないと見なしたが、その「一部」こそが、実は脳にとって最も本質的な仕事なのではないか。

 むろん、1998年にグーグルを創業したラリー・ペイジやセルゲイ・ブリンらエンジニアが、脳科学に通暁していたわけではない。しかし、結果から見れば、グーグルの提供するサービスは、いわば≪探索する脳のミメーシス(模倣)≫として組織されたように思える。グーグルは人間から「記憶」の仕事を免除し、データの検索(探索)にのみ集中させる。人間の脳がはじめから探索に傾いているのだとしたら、検索の欲望には逆らえないし、抗えないだろう。

 私はここで「脳は起きている限り、何かを探さずにはいられない。ゆえに検索が駆逐されることもない」と言い切ってしまおう。グーグルはたんにデータに溢れるインターネットに反応しただけではなく、それにアクセスする脳の特性にも適応して、検索を精度の高い技術に仕上げてきた。私が≪メディアが人間である≫という標語で指したいのは、まさにこのような事態である。

※1 清水亮『検索から生成へ』(エヌディエヌコーポレーション、2023年)7頁。
※2 なお、MITの著名な経済学者ダロン・アセモグルのように、生成AIの維持・管理のコストがきわめて高価であるがゆえに、その発展の可能性に懐疑的な論者がいることも知っておくべきである。ゴールドマンサックスの発行した以下のレポート(2024年6月27日)を参照。https://www.goldmansachs.com/insights/top-of-mind/gen-ai-too-much-spend-too-little-benefit
※3 上田泰己『脳は眠りで大進化する』(文春新書、2024年)185頁。

2、テック・ジャイアンツの無色透明なミッション

 グーグル検索をはじめ21世紀の「スマート」なテクノロジーは、総じて人間を拡張するというよりは、人間へと旋回しているように思える。ヒューマン・インターフェースという考え方は、テクノロジーと人間を和解させることに価値を見出している。ユーザーを最短経路で、無益なストレスなく、迅速に目標に導くこと――それが「スマート」という価値観の根幹にある。

 ここで試しに、テック・ジャイアンツと呼ばれる巨大IT企業の経営理念、彼らの言う「ミッション」なるものを検索してみよう。グーグルは開口一番「ユーザーに焦点を絞れば、他のものはみな後からついてくる」と断言する。ユーザーの利便性を第一とするグーグルにとっては、時間の無駄を生じさせないことが最大のミッションとなる。「自社のウェブサイトにユーザーが留まる時間をできるだけ短くすることを目標にしている会社は、世界中でもおそらくグーグルだけでしょう」という誇らしげな宣伝は、彼らの「哲学」を端的に言い表したものだ。

 かたや「地球上のすべての個人とすべての組織が、より多くのことを達成できるようにする」と宣言するマイクロソフトは、ユーザーのエンパワーメントを自社のミッションと呼ぶ。同様に、アマゾンは「地球上で最も顧客を大切にする企業」であることを第一の理念とし、カスタマーサービスの充実を誓っている。フェイスブック改めメタは「コミュニティづくりを応援し、人と人がより身近になる世界を実現する」と良好な人間関係を築くことに最大の価値を認める。アップルには明文化された企業理念がない。多くの消費者がアップルからイメージするのは、“Think different”をはじめとする創業者スティーブ・ジョブズのモットーだろう。

 むろん、ジョブズがコンピュータを個人にも使いやすくし、ソーシャル・メディアが人間関係のネットワークを拡大し、グーグルが検索の効率性を高めたのが、画期的な意味をもった時代はある。ただ、ITが最大の産業となって久しい今からすれば、各社のミッションは拍子抜けするほどに凡庸に思える。いずれの企業目標も、1兆ドルを超える天文学的な時価総額とは不釣りあいなほどに、無内容で当たり障りがなく、無色透明である。これらの企業にとって、計画や目的は自分たちが与えるものではなく、あくまで顧客において「生成」されるものなのだ。彼らは社会や経済の中心を担っているのに、不自然なほどにニュートラルにふるまおうとする。

 それらに比べれば、テスラのような自動車メーカーやノボのような製薬会社のミッション――「電気自動車を通じて、持続可能なエネルギーへの移行を加速させる」「糖尿病治療で培ったノウハウによって、深刻な慢性疾患を克服する」――は、善悪はともかくとして具体的である。特に、高速の電気自動車を生産するテスラは「人間の拡張」というマクルーハン的プログラムに忠実であり、その経営者のイーロン・マスクは、スペースXを率いて宇宙事業にも乗り出している。マスクは地球からの脱出と火星への植民の必要性を主張するが、このようなSF的なプロパガンダを他のテック・ジャイアンツの経営者が語ることはないだろう(※4)。IT系の大企業が自己を透明化しがちだからこそ、人間の限界を突破しようとするマスクの大言壮語が妙に目立つのである。

 要するに、21世紀は「計画なき時代」であり、テック・ジャイアンツのひどく平凡な経営理念はそれを象徴している。20世紀の共産主義は、国家的な「計画経済」を掲げた。しかし、柄谷行人が指摘するように、ソ連が崩壊して新自由主義が凱歌をあげてからは、社会的な計画全般が忌避されて、すべてを市場に委ねようとする傾向が支配的となる(※5)。国家的な計画は、私企業の「ミッション」に置き換えられた。ただ、IT企業の膨張は、事実上、目的そのものを消滅させたと言うべきだろう。なぜなら、ユーザーや顧客そのものが最大の目的だというのは、めざすべきものが何もないというのと変わらないからである。

 この点で、「生成AI」という命名は確かに21世紀の価値観を正しくつかんでいる。人間を上からのプランニングで束縛するのではなく、むしろ人間の生理や関心に一致するデータを瞬時に、スマートに組織すること――それを言い表すのが「生成」という観念なのだ。私たちが「生成」という言葉をつい気軽に使ってしまうのは、理念的な「計画」が衰退し無効化されたこととコインの裏表である。

※4 例えば、イーロン・マスクと同様に宇宙を志向するアマゾンのジェフ・ベゾスにとっては、地球こそが最高の惑星であり、宇宙進出は地球環境を改善するための手段にすぎない。フレッド・シャーメン『宇宙開発の思想史』(ないとうふみこ訳、作品社、2024年)第7章参照。
※5 柄谷行人「都市プラニングとユートピア主義を再考する」『現代思想』(2015年1月臨時増刊号)74頁。 

関連記事