「怒りや傷つきをそのまま表明しても伝わらない」 『「コーダ」のぼくが見る世界』著者・五十嵐 大インタビュー

前提を丁寧に説明するところから始めなくちゃいけない

――今作で、書けてよかったと特別に感じるエピソードはありますか?

五十嵐:いちばん最後に書き下ろしで入れた「もしも親が聴こえたら」という章ですね。「もしもご両親の耳が聴こえていたら、何か違っていたと思いますか?」と記者に聞かれた話を書きましたが、その人に限らず、みなさん前提として「聴こえないよりは聴こえたほうがいいでしょう?」と当たり前に思っているんです。でも僕は、本当に、親の耳は聴こえなくてもいい、むしろ今は、聴こえない親がいいと思っていて。その気持ちをうまく言語化することが長らくできなかったのですが、今回書いたことで、ようやく自分でも納得ができた気がします。

――五十嵐さんがつらかったのは、まわりから「お前の母親は変だ」と言われたり、おばあさんに「手話なんて必要ない」と言われて学ぶことをとりあげられたり、両親が他者とコミュニケーションをとるときに役に立てなかったりしたことであって、ご両親が聴こえないことそのものではないですよね。

五十嵐:そうなんです。聴こえないこと自体は僕にとってあたりまえのことだから、別にいいんです。実際、小学校にあがる前の、家庭内だけで世界が完結していたときは、とても幸せだったわけだし。それよりも、社会に出たときに生まれる誤解や偏見のほうがしんどかった。それがなかったらたぶん、今もこんなに悩んでいません。

――よく「子どもがかわいそう」って言う人がいるじゃないですか。「こんなお母さんをもつなんて」「そんな状況で産むなんて」と。あれを聞いて「その子をかわいそうに仕立て上げているのはあなたたちでは?」と思うことがあります。

五十嵐:たとえば、アダルト業界の方が出産したときに「母親の職業を知られたらいじめられる」とかいわれますよね。そんなの、いじめるほうが悪いのに、なぜ産むな、結婚するなという方向にいくのか僕もわからないんです。親の属性によって子どもがいじめられるような環境をなくせばいい。先程の話ともつながりますが、ろう者だけでは危険だからロープウェイに乗せない、とするのではなく、どうしたらろう者だけでも安全に乗車できるのかを考えれば、きっと全員が幸せになれるのに。親に障害があると子どもに負担がかかるかもしれない、だったらそうならないようにその子をサポートする仕組みを整えればいいのに、なぜ抑圧する方向に話を持っていくんだろうと思います。

――五十嵐さんはSNSでも頻繁にそうした話題について発信しているじゃないですか。SNSではどうしても理解されない細部を、丁寧に今作では説明していたと思うのですが、声を届けるために意識していたことってありますか?

五十嵐:怒りや傷つきをそのまま表明しても伝わらないんだなということは、SNSでいっぱい喧嘩して、痛感したことで(笑)。言い方を考えないと、伝わらないどころか、かえって反発も生みかねないんですよね。悲しいことに、真摯に理解しようと耳を傾けてくれる人ばかりじゃないから「やっぱりマイノリティってめんどくさいな。関わるのをやめよう」みたいに結論づけてしまう人もたくさん見てきました。分断が生まれる瞬間を何度もまのあたりにしてきたからこそ、まず僕たちの前提を丁寧に説明するところから始めなくちゃいけないな、と思います。

――たとえば映画でも、日本語字幕では不十分なのだという話は、作中で引用されるろう者の方が書いた文章を見ればすぐに理解できます。でもほとんどの人は、同じ日本語とはいえ習得の仕方や使い方がこんなにもちがうのだ、ということを知らないから、なかなか想像しにくいですよね。

五十嵐:強い怒りを表明することで突破できるものもあるから、それもまた必要なことですけど、僕がやるべきことはそれじゃないかな、と連載を通じて感じました。マイノリティの主張って意味わからんとか、めんどくせーとか思っている人たちに、少しでも耳を傾けてもらって一緒に考えるための糸口を見つけるのが僕の仕事なのかもしれない、と。そのためにはSNSの短い文章では不十分なんだな、と気づいたので、今後はあまりやらないようにしようと反省しています。言いたいことは、本で書こうと。

どうすればよりよい方向に向かっていくのか、みんなで一緒に考えたい

――コーダについて語る当事者が多くはないので、映画化されたことも含めて、以前より責任を感じるところも増えてきたのではと思うのですが。

五十嵐:それが最初にお話しした怖さにもつながっていて。どうしても代弁者のように扱われてしまう場面が増えてしまうけど、あくまで僕個人の一例でしかないのだということは、くりかえし言っておきたいと思います。自分は全然ちがうよって人がいたら、そういう声もどんどん世の中に自由に発信されたらいいな、と思いますし。あとは、あくまで僕はコーダであって、ろう者難聴者ではないから、当事者の声を聞く機会も、もっと増えてくれたらと思います。

――この本が、多くの人が意識を向ける一助になることを願っています。

五十嵐:そうですね。ろう者も難聴者も自分には関係ないって思っている人にこそ読んでほしい。コーダなんて身近にいないよ、って言う人もいるけど、見えていないだけなんですよ。聴覚に限らず障害のある人たちが特別な存在になってしまっているのは、エンタメのせいもあるよなあ、と思います。映画でも小説でも、障害者やマイノリティが登場するときは、たいてい意味を求められるんですよね。

――ちゃんと知らないのに描いちゃいけない、という意識もあると思いますが、ただ登場するだけだと「いらない設定」とか言われることもありますよね。設定のために存在しているわけではないのに。

五十嵐:そうなんです。マイノリティが登場することに、けっきょくなんの意味もなかった、と言われると、他人をすかっとさせる伏線のために生きてないよと思っちゃう。海外のドラマや映画なんかを観ると、主人公の友人や知人として障害者がさり気なく出てくることがある。でも、物語上、過剰な意味が込められていなかったりもする。ただ、あたりまえに存在しているだけなんです。日本のエンタメにおいても、マイノリティがそういうふうに描かれていくようになったら、「自分の周りにはいないのではなくて、見えていなかっただけかも」と考える人が増えていくんじゃないかなと思います。

――だからこそまず「知る」ことが必要なんだなとこの本を読んで思いました。

五十嵐:知らないということは、その気がなくても抑圧することに繋がりますからね。視界に入っていないくらいならまあしょうがないかなと思うけど、点字ブロックの上でずっと立って道を阻んでいるとしたら、それは妨害行為になってしまう。そうやって無自覚に誰かを傷つけたり、加害したりしないためにも、「知る」ことが大事なんだなと、自戒を込めていつも考えています。

――前提として五十嵐さんには「自分もろう者のことを理解しきっているわけじゃない」というスタンスがあるじゃないですか。ご自身も迷いながら、失敗したり誰かを傷つけたりをくりかえしながら、前進していこうという姿に、読んでいて「私も」という気持ちにさせられます。

五十嵐:自分は完璧に理解していますよ、ちゃんとわかっていますよ、とためらいもなく言う人ほど、上から目線だったりするんですよね。それはそれで怖いし、僕はそうなりたくなくて。やっぱり、自分は間違っているかもしれないと常に自問自答して、確かめながら進んでいきたいんです。そもそもこの本に書いた問題も、簡単に答えが出せないものばかり。考えて、考えて、ちょっとわかったつもりになって、それでもやっぱりわからない、ということの繰り返しで、やっと書き上げました。でも、そもそもどう考えていいかわからない、という人もいるだろうから、僕の思考過程を見せることでとっかかりになれたらなと思います。そのうえで、この社会がどうすればよりよい方向に向かっていくのか、みんなで一緒に考えたい。その想いを大事に、これからも僕なりに見える景色を書いていこうと思います。

■書籍情報
『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』
著者:五十嵐 大
価格:1760円
発売日:2024年8月2日
出版社:紀伊國屋書店

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