第171回芥川賞候補5作品を徹底解説 向坂くじら「いなくなくならなくならないで」など個性的な作品並ぶ

向坂くじら「いなくなくならなくならないで」(『文藝』夏季号)

〈朝日が死んで四年半になる。/死んだはずの友達から電話がかかってきて、明日会いたいと言われた。そんなことを言えば心配されるだけだろうから、時子はだれにも話さずに池袋まで来た。〉

 詩集『とても小さな理解のための』(2022年)や、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(2023年)などで知られる著者の初小説が、芥川賞候補に初ノミネート。

 10月のある日、大学卒業と就職を間近に控えた時子のもとに、4年半前に死んだはずの友人・朝日から電話がかかってくる。ふたりがまだ17歳の高校生だった年の大晦日、朝日は本当に自ら命を絶った。名前に「日」の字が入っているという共通点から、表紙に「日」とだけ書いた交換日記では、ふたりで「死にたい」と言い合っていた。

 「幽霊」のようにふたたび、眼前に現れた朝日を時子は一人暮らしの部屋に迎え入れるが、年末までという共同生活の期限は有耶無耶に延期され、就職にともない実家に帰っても朝日は着いて来てしまう。自分に対してそうだったように、朝日は人々の心の穴を埋めるように寄生して、時子の家族関係や友人関係を擾乱していく。時子は朝日の無意識的な魅力に嫉妬しているのか、朝日は意図的に時子を挑発しているのか。次第に時子は、ひとときは再会を喜んだはずの朝日の言動に違和感を感じ始め、彼女を追い出すことを画策するようになる、が……。

 「いなくなくならなくならないで」。何度考えてみても、この一文が結局、「いなくなって欲しい」/「いなくなって欲しくない」という感情のいずれかを言っているのか、いまだに分からないでいる。だがきっと、感情なんてものは、本来これくらい混然としたものなのだろう。驚喜が憎悪に転じ、苛立ちが愛着に転じ、接近が怒気に転じ、後悔が輝きに転じる。パタパタと何度も手のひらを返すようなタイトルに相応しく、読み進めるなかで時子(そして読者)の感情は、猛スピードで覆り続ける。生と死が縺れ合い、愛情と殺意がこんがらがって、時子と朝日のふたりが解けることのない結び目のようになってしまうラストシーンに至るまで、まったく油断ならない作品である。

松永K三蔵「バリ山行」(『群像』3月号)

〈「じゃあ、一回行ってみる?」そう妻鹿さんが言ったのは帰りの車内だった。え? と思いがけない誘いに私が戸惑っていると、「山、行ってみる? バリ」と妻鹿さんは笑った。〉

 「カメオ」(2021年)で第64回群像新人文学賞優秀作に選ばれた著者が2作目で初めての芥川賞候補作入り。

 前作に続き、舞台は神戸。「私」(波多)は、建物の外装修繕を専門とする「新田テック建装」に転職して2年ほどになる。以前の勤務先で面倒な社内の付き合いを避け、リストラ候補となった経験から「私」は、週末の休みに六甲山などに赴く「登山部」に所属することになる。あるとき、会社の常務で部の顧問でもある藤木の退職に伴う、送別登山が企画される。そこに珍しく参加することになったのが、藤木以外の社の人間とはほぼ接点のない、目立たず、不器用で大人しいイメージのベテラン社員・妻鹿だった。登山経験者だという妻鹿に対し、登山部部長・松浦は、非難の口調でこう言う。「バリやっとんや、あいつ」。

 「バリ」とは「バリエーションルート」の略。通常の登山道ではない道を行くこと、熟練者向きの難易度の高いルートや廃道を行くことを指す登山用語だという。その後、藤木の提案で妻鹿流の「バリ山行」を体験した「私」は、整備済みの道を「歩かされる」通常の登山ではなく「バリ」に、そして、事業方針の大幅転換の影響からリストラを含むあらゆる噂や予測が飛び交うようになった会社の波瀾を横目に、「古臭い」営業を続ける(そして、土日の休みには山に赴き、ひとり「バリ」を続ける)妻鹿に、次第に心惹かれるようになる。

 いわゆる「経済小説」「サラリーマン小説」的な読み心地に加え、しっかりとウェルメイドなオチも用意されている。が、本作の最たる魅力はやはり、山肌に鬱蒼と生い茂る樹々のごとく、微細に書き込まれた風景描写であるだろう。この点、前作の軽妙な文体からの「転職」(?)ぶりは意図的なものだろう。妻鹿の後姿を追い、常道ならぬ道を行く決意をした主人公に、ともすれば廃道となりかねない「描写」というオールドスクールな「テック」(技法)を追求する作者の試みが重なった。

 受賞作予想は、本命が向坂くじら「いなくなくならなくならないで」、次点で朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」です。

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