話が飛ぶ人は体内に複数の時間が流れているーーADHD当事者の作家が描くエッセイ『あらゆることは今起こる』

 小学校1年生のときの教室。クラスメイトたちの当たり前を、自分だけがさっぱり理解できず、それを周囲には悟られないように平静を装いながら、内心はげしく動揺している。もしかしたら自分は気づかないうちに、どこかに存在する「並行世界」に迷い込んだのかもしれない。そう思うと、次第に怖くなってくる。

 小説家・柴崎友香の『あらゆることは今起こる』は、そんな「小説の始まり」のようなエピソードから始まる。でも、これは「小説」ではない。2021年9月にADHD(「注意欠如多動症」)の診断を受けたという柴崎が書き下ろした、発達障害をめぐるエッセイだ。医学書院の「ケアをひらく」シリーズに収められているのだが、そのコンセプトにたがわず、ひじょうに平易な言葉遣いで、発達障害の特性を知ることができる。著者自身が発達障害についての考えを深める過程と並行して書かれていて、ADHDという言葉を耳にしたことはあっても、充分に考えを深めてこなかった、という人にも優しい造りになっている。

 なお断っておけば、本書はあくまでも個人的なADHDの観測記録である。柴崎が自戒を込めて「人の体はそれぞれ違う」と繰り返すとおり、体験や困難はあくまでも個別的なものだ。そもそも、柴崎曰く、ADHDの診断は、発達障害か否か、をはっきりと振り分けるものではない。著者はそのグラデーションを「等高線のある山の「地図」を作ること」に喩える。その地図についてより自分が置かれた状況を把握することで、あの斜面は危険そうだから避けようとか、回り道でもこの道からなら行けそうとか、自分に合った選択や判断をしやすくなる、というような使い道がふさわしいという(もっとも、著者が言う通り、「世界」が「地図」よりも遥かに「複雑で豊穣」なのは前提として)。

 そうした前置きの上で、柴崎が本書で明かす困りごとは、こんな感じだ。時間通りに行動できない。部屋が片付けれられない。集合場所に辿り着けない。人に助けを求められない。体の内側と外側の連絡がうまくいかない。気軽に旅行に行けない。会議や打ち合わせが得意ではない。傍目からは「なにもしていないでぼーっとしている人」に見えるのだけれど、頭の中では同時にさまざまなことが次々と思い浮かぶためにどっと疲れて、一日にやれることがとても少ない。そのほか、地味に困っていることもいろいろ。

 こう聞けば、柴崎の抱える悩みの種に共感を覚えるひとも少なくないだろう。だが「それぐらいなら、誰にでもあるからだいじょうぶ」という(おそらく)善意の言葉は、当事者の困難の存在をないことにしかねないから危険だという。同様に「全然そんなふうに見えないからだいじょうぶ」という励ましも危うく、そう見えないからこそ、ADHDは周囲の理解を得にくく厄介なのだ。一見平穏な彼女の「日常」は、外部から想像する以上の「混沌」によって構成されている。著者はこうした「誰にでもあるからだいじょうぶ」、「そんなふうに見えないからだいじょうぶ」という、一見優しげな言葉の背後にこそむしろ、「違うこと」は悪いこと、「同じであること」は良いこと、とする旧弊な価値観が潜んでいると看破する。そこに見え隠れするのは「普通」であることへのオブセッションだ。この意味で本書は、作家の身辺的な観測記録であると同時に、日本社会に沈潜する病理を浮かび上がらせる批評的な射程をも兼ね備えている。

 そしてもうひとつ、本書が確かに併せ持つのが「小説論」の側面だ。「あらゆることは今起こる」。タイトルに選ばれたこの一文以上に、柴崎の小説的特性を言い表すのにうってつけの言葉はそうない。柴崎はあるトークイベント後の雑談で、本書と同じく「ケアをひらく」シリーズに収められた『どもる体』(2018年)の著者・伊藤亜沙から「話が飛ぶ人は体内に複数の時間が流れていると思うんですよね」と言われ、こう考えたという。

〈それは私の小説そのものである。ある場所の過去と今。誰かの記憶と経験。あるできごとをめぐる複数からの視点。〔……〕複数の人物の視点や、同じ人物の違う時間の視点、ある場所に起きたいろんな時代のできごとを場所や人の中に重ねるように書いてきた。私はたぶんそのようにしか小説を書けない。そのようにしか書けないことが私が小説を書こうとする動機であると思う。〉

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