藤子・F・不二雄のSF短編ドラマ『鉄人をひろったよ』原作はどんな物語? 日常における「巨大ロボット」の捉え方

 『鉄人をひろったよ』では、鉄人がもたらす脅威も、鉄人を私利私欲のために利用する人間の愚かしさも、鉄人と友情を築こうとする豊かな感受性もクローズアップされることはない。本作にあるのは、あくまでも日常的な生活に立脚した、「モノ」の延長線上に鉄人をみなす態度である。

 そして、それはけっして間違った態度などではない。

 『ドラえもん』や『キテレツ大百科』に、または手塚治虫の『鉄腕アトム』でも、横山光輝の『鉄人28号』でも、永井豪の『マジンガーZ』でも、あるいは映画や戦隊ものの番組などでも構わないが、さまざまな魅力あるロボットを文化として享受してきた世代にとっては、ロボットに対して何らかの特別な価値や情緒を覚えることは自然かもしれない(原作は1983年なので、上記の例はその時点で存在した代表的作品のなかから選定している)。しかし、老人はおそらく、そうしたロボットの恩恵を享受した世代ではなく、そもそもロボットという存在への知識も乏しい。それは老人が鉄人をはじめてみたときの、「そうだ!孫の雄一郎がこんなの持っていたぞ。ロリコンとかいうんだ。ラジコンだったかな」というセリフからも了解できる。

 しからば、ロボットに対して必要以上の感情を抱かないことも、これまた自然なことと言えるだろう。さらにいえば、悪の組織も、地球侵略を狙う宇宙人もいない日常の生活の場において、図体のでかい、存在自体が悪目立ちする「鉄人」などを所持することには何のメリットもない。老人の最後の決断は、けっして愚かなものでも、冷徹なものでもない。むしろ、それが正解だったのだと納得させられてくる。

 『鉄人をひろったよ』は、「鉄人」を正義の味方/強大な敵/かけがえのない友だち……といった特別な役割を担う存在としてではなく、あくまでも「モノ」として日常に算入させたらどうなるかという、藤子・F・不二雄の実験精神から生み出された作品であり、そこにこそ独自の味わいがあると言える。同時に、それは言い換えれば、ドラえもんやコロ助、ロボケットやゴンスケなど、それぞれに魅力のある「特別な存在」としてのロボットをいくつもの作品で描いてきた、藤子・F・不二雄の自負を反転させたものであったかもしれない。

 そして、本作の「鉄人」というテーマは、2年後にさらに大きな形で昇華されることとなる。それこそが『大長編ドラえもん』の最高傑作『のび太と鉄人兵団』であり、鉄人たちは「ドラえもんの映画史上最強の敵」(藤子・F・不二雄談)という、まさしく「特別な存在」として描かれるのだ。

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