『小説 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 下』から読み取れる、ラクスの思いとアスランの破廉恥な妄想

 41億円もの興行収入と、250万人に迫る観客動員数をあげてなお快進撃を続けている映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』。そのノベライズ後編となる『小説 機動戦士ガンダムSEED FREEDM 下』(KADOKAWA)が、映画の脚本を 両澤千晶と共に手がけた後藤リウの執筆で3月26日に発売。めまぐるしい展開の中でキャラクターが出会いモビルスーツがぶつかり合うアニメをじっくりと振り返るのに最適な上、キャラクターの心情や物語の背景が言葉で説明されていて、より深く映画の世界に入っていける。

 「カガリ……」アスランは一心にカガリの姿を思い描いていた。そのイメージにすがるように。勝ち気な金の瞳、ふと見せるあどけない笑顔、髪の匂い……。濡れて透けた服の下のしなやかな曲線……。抱きしめた肌の柔らかい感触と、その下の骨格……。

 『小説 機動戦士ガンダムSEED FREEDM 下』に登場するこの部分が、映画のどのような場面を描いたものかは、すでに映画を見た人なら分かるだろう。アスラン・ザラが脳裏に浮かべたこのビジョンを、浴びせられる形となったシュラ・サーペンタインという名のファウンデーション王国のパイロットが、「なんという破廉恥な妄想をッ!」と叫んだのも納得の生々しさだ。

 映画では絵によって描かれ観客の心に刺さったビジョンだが、言葉によって説明されるとなかなかにそそられるものがある。文章はこの後も続く。通信によってすべてを聞いていたオーヴ連合首長国代表首長のカガリ・ユラ・アスハが「……破廉恥な妄想だと?」といぶかり、「アスランーっ!」と叫んだのも分かる女性描写を、小説版では何度も繰り返し味わえる。アスランとカガリの関係を長く応援してきた“アスカガ”な人には嬉しいひとときだ。

 この2人については、映画では表だって語られていないやりとりが小説版の最後に描かれる。かつてデスティニープランを掲げて人類を遺伝子によって振り分けようとしたプラント最高評議会議長のギルバート・デュランダルが倒された後も、いっこうに収まらない紛争に対応するため世界平和監視機構・コンパスが作られ、ラクス・クラインが総裁の地位に就いた。その活動の一環として、独立運動を続けるブルーコスモスの指導者を捕らえようとする合同軍事作戦が遂行されたが、作戦に参加していた新興国ファウンデーションが突如デスティニープランを持ち出し、ビーム兵器のレクイエムを使って世界を支配下に置こうとする。

 その過程で主人公のキラ・ヤマトやシン・アスカは行方不明となり、ラクスはファウンデーションによって連れ去られて傀儡にされそうになるが、存命だったキラやシンがコンパスとは別に動いていたアスランと合流し、ファンデーションとの決戦に臨む映画後半のストーリーが、小説版の下巻に描かれる。激しい戦いを経てファンデーションの野望を打ち砕いた後、美しい高家の中でキラとラクスの愛の交歓が繰り広げられるが、それがどのような状況下で行われていたかが、小説版の末尾にアスランとカガリのやりとりとして添えられている。

 それは、キラとラクスにだけ重荷を背負わせ続けたことから脱却し、アスランとカガリが表に立って世界平和のために活動していく決断ともとれそうなやりとりで、“アスカガ”な人には2人がこれからどのような物語を紡いでいくのかを、何らかの形で描いて欲しいと思えてくるだろう。“キララク”の人はやっと幸せになれたといった安心感に浸りつつ、でももう少しだけといった思いが浮かぶかもしれない。

 シリーズの到着点を言葉によって補足した上で、ファンに指し示す役割を小説版は持っている。それとは別に、映画の中に描かれたさまざまな場面でのキャラクターの心情であり、状況の真相といったものを小説版では言葉によって教えてくれる。

 たとえばラクスが、ファウンデーション宰相のオルフェ・ラム・タオに向かって言った「あなたの愛する『ラクス・クライン』は、私ではありません」という言葉。映画では、運命の相手として共にあるのが当然といったオルフェの、ラクスを理想化し象徴として捉えた言動を、生身の人間として否定した言葉だと受け取れた。

 これは一面として正しいが、ラクスはもう一段踏み込んで考える。「――『ラクス・クライン』って、ホントはなんだったんだろう?」。かつて自分の偽物として活動していたミーア・キャンベルのことを振り返り、世界を平和に導く象徴となろうと決めたことは正しかったのか。それは本当に自分が望んでいたことだったのか。立場や役割に従って生きるなら、それは遺伝子に従って生きることを強要するデスティニープランと変わらない。世界を平和に導く一方で、「自分から『自分自身』を奪い、役割に押し込もうとする力から」に抗い、逃げることも決意するラクスのこの思いが、映画のラストシーンにつながっていると分かる心情描写だ。

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