「ディストピア小説の極致」翻訳家・金原瑞人に聞く、ジョージ・オーウェル『絵物語 動物農場』の“警鐘”

■ディストピア小説のあらゆる要素がシンプルにまとまっている

ディストピア小説のエッセンスがうまくまとまっているのが『絵物語 動物農場』の特徴だ。

ーー金原さんの『動物農場』という作品に対する評価を教えてください。

金原:いわゆるディストピア小説というジャンルがあります。1930年代のオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』、それから40年代にオーウェルの『動物農場』『1984』があって、50年代にはネヴィル・シュートの『渚にて』がありました。最近では、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』もそうですね。

 この15年ほど、僕の好きなアメリカのYAというジャンルでは、ディストピア小説がすごく多いんです。なぜなんだろうと気になって、昔のディストピア小説を読み直してみました。すると、その中で『動物農場』は最も短いけれど、ディストピア小説のエッセンスがうまくまとまっているような気がしました。普通のリアリズム小説と違って、副題の「寓話」の形になっている。まさにディストピアとはこれだよね、と思わされます。みんなが理想的な世界や社会を望んでいたのが、いつの間にか転換してディストピアになってしまう過程が、シンプルでとてもわかりやすく表現されています。

ーー動物農場では最初にみんなで決めた規則があとから改竄されたり、新たな統治者ナポレオンが他の動物を搾取したりします。ソヴィエト崩壊後の今の世界でも、同じようなことが繰り返されているように思いました。全体主義的な雰囲気が蔓延していった場合、そこで文学はどのような役割があるでしょうか。

金原:オーウェルはソヴィエトをモデルに全体主義的で独裁的な政治に対する批判的な作品を書きました。でも今の資本主義社会でも同じようなことが起こっています。一部の人がピラミッド構造の上の方にいて、下にいる人々から利益を吸い上げていき、そこではとんでもない差別や搾取が繰り返される。我々もそういう世界に住んでいるということを忘れがちです。

 今の日本はあちこちに防犯カメラがついていて、安全な社会だと考えられている。しかし逆に言えば、それは監視・管理されているということです。日本が一旦全体主義的な方向に走り出すと、我々を守ってくれると考えられたものがたやすく武器になってしまいます。それに対して違和感を持ち警鐘を鳴らしたくなるのが、やはり作家なのだと思います。作家の性(さが)みたいなもので、居心地の悪い社会にいるとどうしても何か書きたくなるのでしょう。

 アメリカのSF作家カート・ヴォネガットも、オーウェル同様に心よき社会主義者でした。彼も何かを言わずにはいられませんでした。そして彼らは書き方がやっぱりうまい。読者はその巧みな表現で作品を読まされるうちに、社会に対する認識が変わってくる。なのに世界は変わっていかない。それでも、新しい時代に、新しい作家が、新しい言葉でそういう作品を書き続けていることは大きな希望を与えてくれると思います。

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