冒険家・角幡唯介が犬橇を始めた理由とその目論み 「犬と人間が一致団結するというのはファンタジーに過ぎない」

裸の大地第二部『犬橇事始』のこと

ーーその漂泊の旅を追求するために犬橇をスタートするのが今回の第二部『犬橇事始』ですが、イヌイットの人が作った橇ではなく、角幡さん自らがすべて作られていて驚きました。道具を一から作ろうと考えた理由はなんですか。

角幡:もともと自分で一人で歩いてる時から小型の橇は作ってはいたんですよ。犬橇も最初から橇は自分で作ろうと思ってたんだけど、先ほどと同じで風景との距離感みたいなのがすごく嫌だったんです。それはいたるところであって、物との距離感みたいなのもあるわけですよ、物に到達できない。自分で作ってない橇だったら、誰かの力だとか誰かのアイデアによって自分は旅することになるわけです。それでは橇に自分は関与できてないんですよ、自分が関与してないもので旅をしても、自分の行為そのものと自分は距離があるわけです。

  その距離がやっぱり虚無感みたいなの生み出していて、犬もそうです。最初はイヌイットの人が育てて調教した犬でまとまったチームをそっくり譲り受けたほうが絶対にうまくいくに決まってるんですよ。だけど、それは自分が育てた犬じゃないし、その犬は自分と何の関係もないわけです。自分の時間も労力も費やされていない犬で旅をしても、その旅は自分の旅なのかと考えたら自分の旅じゃない、旅と自分の間に距離がある。橇を作ろうと思ったのもその距離を消すためには自分で作るしかないわけです。それはさっき言ったような漂泊の概念と同じで、いかにして自分の周りにある距離を消すかということですね。

犬との距離感

——今回の本は角幡さんと犬たちとの物語と言っても過言ではないと思うんですが、当初から第二部では犬と関係にフォーカスさせようと考えていたのですか。

角幡:第一部のときはいろいろと評論っぽい話とルポみたいなのを組み合わせた本を書きたいなと思ってそういう本にしたんですけど、第二部はそれよりもドキュメンタリーの要素を多くしたいなと思いました。そんなに深い意味があったわけじゃなくて第一部でちょっと疲れたから(笑)、第二部はもうちょっと肩の力を抜いて書こうと考えてました。ちょっと面倒くさい話も書いてありますけど。

——現在の日本に住む私たちと犬との関わり方からすると、本書での角幡さんと犬との関係は大きく違っていて、例えばジャック・ロンドンの小説(『野性の呼び声』や『白い牙』など動物小説を中心にリアリズム文学の先駆的作家)のような切実な環境と重なるような、ある部分ではとてもショッキングなところもありました。角幡さんにも「犬はかわいい」という感覚はあると思うんですけど(笑)、犬に怒鳴ったり折檻したりと、そういった犬との距離感がとても新鮮であり興味深かったです。

角幡:犬橇をやれば分かるんですけど(笑)怒鳴らないってのはありえないんですよ。それはもう、考えとか以前の問題で、突然バーっと走り出したりすると「コノヤロー!」となっちゃうんですよ。

——犬橇は人間と犬とが互いに協力して行動するというようなイメージでしたが。

角幡:僕もそう思ってましたよ。けどそれはファンタジー。ファンタジーに過ぎない。僕は犬橇の本では本多有香さんの『犬と、走る』(集英社)ぐらいしか読んだことないんですけど、例えば犬橇りの映像とかだと良いとこしか見せないないわけですよ。それは世間でやっぱり犬と人間の関係ってのは、犬と人間が一致団結してっていうファンタジー化されててね。そういうファンタジーがすでに成立しちゃってますから、そこからはみ出す書き方ってなかなかできない。ジャック・ロンドンだけですよちゃんと書いてるの。あれはちゃんとホントのこと書いてるから。なかなかああいう書き方はできない。でも怒鳴らないってのはない(笑)

——角幡さんが怒鳴ると、やっぱり犬もわかるものなんですか。

角幡:いやまあ、賛否両論あると思いますけど、僕も5年間いろいろなやり方でやってきて、1、2年目はホントに制御できないからどうしても怒鳴っちゃうし、手も出る。3年目、4年目になってくると自分で育てた犬が出てきたりして、怒鳴るとか殴るとかしなかったんですよ。それすると自分もめちゃくちゃ疲れるし。そうするとね、今年わかったのは、やっぱね、優しくすると走んない(笑)

——甘やかしちゃダメですか。

角幡:甘やかすとやっぱ走んない。この2、3年、殴りたくないなっていうのはありますから、なるべく手を出さないようにして怒鳴らないようにしたりして子犬の時から育ててたんですよね、そうすると、やっぱね、走んない。

——犬がサボるという感じですか

角幡:サボる。普段は走るんですよ。体力があって元気な時は走るんだけど。本当に疲れてきて「かったりぃな」って思った時に走んなくなる。頑張れば本当に登れる坂とかも止まっちゃうんですよね。『犬橇事始』で書いた最初の2年目の時のチームは年齢的なものもあって犬たちも精神的に成熟していましたけど、今の犬は1歳2歳が多かったんですよ。それで今年の旅の途中ですごく厳しくし始めたんですよ、「行くぞ!」みたいな感じでわざと煽って。そうするとやっぱ走るんですよ。本当に極限的な状況になったら厳しくした方が走る。

写真=竹沢うるま

犬は相棒ではない

——『極夜行』から第一部『狩りと漂泊』にはウヤミリックという一頭の犬と旅をされていて、本書の犬橇のチームでも長い付き合いとして角幡さんはこの犬を気にかけていましたが、犬たちは角幡さんにとって相棒とは違いますか。

角幡:相棒というより自分自身ですね。ちゃんと走ってもらうためには教育して、自分たちで一緒にチームとして場数を踏んで修羅場をくぐっていなくちゃいけないんですよ。走れるようになってもらうために僕自身も努力するし、犬に自分の労力、お金、時間を全部注入して生活そのものも犠牲にしてやってるわけですから。走れるようになったらそれはもう嬉しいし、犬が自分の思ってるように動いてくれたらそれは自分の行動そのものなわけです。自分の存在が犬に憑依したような感じで、できるようになったら自分ができるようになったことと同じ意味です。そういう意味では子供に近いかもしれないですね。子供は友達じゃないじゃないですか、相棒でもない、子供は子供なわけで、もう一人の自分なんですよ。それに近いかもしれない。

イヌイットの言葉「ナルホイヤ」の意味とは

——ここではあえて触れませんが、今回の『犬橇事始』は『極夜行』から読んでいた人にとってはかなりショッキングなラストでした。そしてその際に「ナルホイヤ」というイヌイットの言葉が登場します。「裸の大地」シリーズでとても重要なこの言葉がとても強烈に読後に残るのですが、改めてこの「ナルホイヤ」がどのような意味なのか教えていただけますか

角幡:『狩りの思考法』(アサヒグループホールディングス)という本でも書いたんですけれど、「ナルホイヤ」とは“分からない”って意味なんです。イヌイットの彼らの生の哲学みたいな感じですよね。さっき言った「漂泊」と同じ行動原理だと思うんですけど、“分からない”ってのはただ単に適当で、いい加減だっていうことではなくて、自然とか世界ってものは“分からない”という態度で望まないとダメなんだっていう彼らの思想ですよね。それは何か未来のことを考えてそれを前提に計画してしまうと、どうしても人は計画に縛られて計画通りに行きたがるんですよ。

——計画のために無理をしてリスクを増やしてしまうとか。

角幡:必ず人は計画をして、未来を見通した上で今を見てしまうと絶対にその未来に縛られてしまうから、判断を誤る。だから計画そのものがダメなんだ、目の前の出来事に対して謙虚になれっていう思想ですよね。それはいろんなところに現れていて、物を作るときも設計図を基にしちゃダメ。例えば木材がありますよね。木目は木によって違うわけで、その木目を見てどのように作るかを考えなきゃいけない。設計図を基に作ってしまうと生産効率が上がって社会全体の、例えば机の生産量が上がって同じ品質のものができるかもしれない。だけど究極にこの木目を考えて木そのものを活かしたものはできないわけですよ。だから、必ず物を作るときは木目と相談して、例えば橇を作らなきゃいけない。そういうふうに本当に目の前の世界と向き合ったときに最適な答えは、僕の言葉で言ったら、それは計画じゃなくて漂泊だってことです。

——「ナルホイヤ」はこのシリーズで本当に象徴的な言葉だと思います。

角幡:彼らイヌイットは旅をするときも予定を決めないんですよ。どこに行くか分かんないけどとりあえず旅に出るみたいな。「北の方に行く」とか、「アウンナットに行く」とか、アウンナットの先はどうするのと聞くと「そのあとは分からない」。それはそのときの獣の状況次第だから。彼らの旅のスタイルってのは常にそういうふうに漂泊なんですよ。獲物を相手にしたときにじゃあどこに行くのか、いやこの辺に行くけどその後のことは分からん、というような感じですよね。獲物が獲れたら終わりだし。

変化する時間の概念

——「ナルホイヤ」という思想・哲学によって、未来を予期するよりも今、現在を中心に意志決定がされるという世界で角幡さんは長年活動されているわけですが、ご自身の時間の概念は以前とくらべて変わりましたか。

角幡:変わりましたね。めちゃくちゃ変わった。時間の概念っていうか、行動の仕方がすごい変わりました。先ほど言ったように昔は計画的に行動してましたから、目の前の土地だとか、風景との距離感というか、「自分はこの土地を旅してるけど全然入り込めてないな」という感覚がすごく強くあったんだけど、今は無いもん、すげえマッチしてるな(笑)

——例えば二時間かかるA地点に向かっている途中で何か見つけたときに、例えばそこにBっていう地点が見つかったとして、立ち寄りたいけど片道1時間、往復2時間みたいなことを考えてしまう。漂泊ではそれを考えなくてよくなったということですか。

角幡:そうですね。完全に考えてないわけじゃないけど、「まあいいや」って思えるようになった。フンボルト氷河に向かっているときに、昔は別の場所のあそこに行きたいなって思ってもやっぱり通過しちゃうんですよ。この『犬橇事始』の最後の旅でもまだそうだったんです。でも今ではもう獲物探しながら、この先に行くのに何日も遅れちゃうんじゃないのって思っても、まあ別にいいやっていう感じにはなってきました。

——狩りによって食料の制限もなくなったからですね。

角幡:別にいけなくてもいいや、みたいな感じになってきた。それよりもまずここでとりあえず獲物を取る。そのこと自体に意味がある。犬橇はルートがすごく限られていて、雪が硬くてしっかりした土地の条件とかその時々の条件に従っていかないとひどいことになるんですよ。それをうまく使っていくと、無理やり行動してる感じがなくなる。ちゃんと土地を使って移動できてるって感覚があるから調和感がすごくあって、それがすごく嬉しいんですよね。ちゃんと土地の条件を使って移動できた時のよく分からない喜びがあって、土地と自分とがうまく調和できてる、人間の移動の根源的な喜びみたいなのがそこにあるような気がするんです。その喜びの感情が大事なのかなっていう気がします。

写真=竹沢うるま

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