『ガンダム 水星の魔女』が背負った多様な課題と、果たした大役 “ウェルメイドな優等生的作品”という横顔に迫る

 なんというか、「こんなに綺麗に親子が対話して終わったガンダムって結構珍しいんじゃないか」という結末になった『水星の魔女』。いろんな種類や高さのハードルをかなり頑張って飛んだ、ウェルメイドな作品だったと思う。

 とにかく「頼むから全員一回ちゃんと会話してくれ!」という事態の連続だった『水星の魔女』。最終話はほとんどこの対話不足問題を解消するために使われたように思う。最終決戦仕様の強力な機体でバチバチに殴り合うのではなく(前回のレビューでも書いたように、最終決戦でのスレッタのムーブは基本的に「逃げること」に重きが置かれていた)、対話することが登場人物たちには必要だった。

 今回それを可能にしたのが、高いパーメットスコアに耐えられるスレッタ、そしてキャリバーンとエアリアルの力である。データストームとパーメットについてはわかったようでわからないところも多いが、「人間の人格も含め、データのログがシステム内に組み込まれていれば、高いパーメットスコア下でそのログを呼び出せる」ということは以前から説明されていた。クワイエット・ゼロを使ってエリクトを擬似的に生き返らせるというプロスペラの目的も、この機能を利用したものだったわけである。

 この最終話では、スレッタとガンダムの力によって、このパーメットの力が発動する。高いパーメットスコアの下でこの世とあの世の境界線が曖昧になり、死んでいった人々とプロスペラがコミュニケーションを取ることが可能になる。スレッタは死後の世界と交信することで母親を癒やしたわけであり、やっていることとしては確かに「魔女」の領域だと思う。タイトルに偽りなし。綺麗な回収の仕方だ。

 ようやく各登場人物がコミュニケーションを取り、収まるべきところに収まり、よかったよかったというエピローグも印象的だ。ガンダムシリーズには最終決戦でけっこうな人数が死ぬ作品も多いが、『水星の魔女』はラスト周辺での死者数が記録的に少ない作品になったと言える。「戦闘ではなく、あくまで話をしに行くのが目的」というスレッタの動機を反映した結果だろうし、ずいぶん丸く収まったものだとは思うが、同時にハッピーエンドでよかった……と感じたのも事実である。

 しかし、なんせ学園ものであり、基本的に舞台がアスティカシアから動かなかったので、『水星の魔女』の作品内世界の奥行きには若干欠けるものがあったと思う。ガンダムシリーズには初代以降一種のロードムービー的な側面があり、主人公とその周辺の人々は母艦に乗って世界を移動することが多い。そこをばっさりとカットしたことは英断だった側面もあると思うが、「結局アーシアンとスペーシアンの対立はどういったものなのか」という点についての突っ込みは浅くなった。

 最終回でもそこのところについてはかなりふんわりしていたと思う。もとより短時間で解決するような問題でもなく、結局地球にばら撒かれたベネリットの資産はまた宇宙へと吸い上げられそうになっている。根本的な問題解決は棚上げとなり、ミオリネたちの前には課題山積という状況である。

 希望があるとすれば、やはりミオリネが地球側と対話する姿勢を見せているところだろう。アーシアンたちがミオリネに対して何を訴え、それをどう解決するのかは劇中では文字通りの棚上げになってしまった。が、対話する姿勢を示すこと自体は描写されていた。「データストームとかを使ってでも、まずはちゃんと腹を割って話そう」というテーマをこれまで描いてきた以上、今後は地球と宇宙の間でも円滑にコミュニケーションが進むはず……と思いたい。

 考えてみれば、『水星の魔女』はずいぶん多くのハードルが課された作品だった。歴史も文脈もあるガンダムシリーズの最新作であり、久々のテレビシリーズである。若い客層の掘り起こしによってガンダムシリーズの持続可能性を高めることも求められていただろうし、もちろんプラモデルやフィギュアやその他関連商品も売らなくてはならない。SNSでウケることも求められるだろうし、「単に面白い」というだけではダメなのだ。

 全話通して見た後の今考えると、『水星の魔女』はそういったハードルをなるべく全部クリアして完走することを目指していたことがわかる。女性主人公でガンダムをやる意味を鮮やかに示した第一話に始まり、各部にSNS映えを意識したセリフや展開が散りばめられ、謎の解明を先延ばしにしつつ不穏さを匂わせるストーリーで視聴者の興味を惹いた。

 加えて商品展開にしても、例えばいまだかつてこれほどまでにアクリルスタンド系アイテムが発売されたガンダムはないはずである。「別にプラモじゃなくても、キャラクターが印刷された板が立っていればそれでいいし、なんならそれとプラモを組み合わせて遊べる」というのは『水星の魔女』ならではの遊び方の提案だったと思う。アクリルスタンドという文化を理解しているのは、ある程度年齢層の低い視聴者だろう。売れていなかったらすぐやめているはずで、ガシャポンでもプラモデルの台座でもそういったアイテムが発売されているということは、「この作品からガンダムシリーズに触れた」という人をある程度取り込めているのではないだろうか。

 つまり、『水星の魔女』はそういった多様な課題に対して、解決のためにはどうすればいいかを考え抜いた作品だったのだ。それらの課題に真正面から挑みすぎた結果、ぶつ切りの衝撃的なシーンをつなぎ合わせたように見えるところもないではない。が、基本的には毎週「次はどうなってしまうのか」とドキドキしながら放送を待つことになったし、ストーリーの引きの強さは見事なものだった。

 個人的にはもっと「なるほど、ここはSNSでウケそうだな……」という以上のインパクトや情念を感じさせるものがあると嬉しかったが、しかし『水星の魔女』が果敢にチャレンジに挑んで「令和にテレビ放送されるガンダムシリーズ」という大役を果たしたのは間違いない。続編があるのかどうかわからないが、もしあるのならやっぱり楽しみに見てしまうことだろう。自らに課せられた役目を十分に果たした、ウェルメイドな優等生的作品。それが『水星の魔女』という作品の横顔ではないかと、全話見た今改めて思っている。

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