浅田彰や柄谷行人との交流も 坂本龍一の出版界における歩みを振り返る

 2023年3月28日に71歳で亡くなった音楽家の坂本龍一は、イエロー·マジック·オーケストラ(YMO)の世界的な成功や、映画『ラストエンペラー』のサウンドトラックで米アカデミー賞の作曲賞を受賞したことなどが広く知られているが、出版界においても存在感のある人物だった。

 父は野間宏の『真空地帯』や三島由紀夫の『仮面の告白』など、戦後文学の名作を数多く手掛けてきた伝説的な編集者である坂本一亀で、その影響もあってか、学生時代から読書家だったという坂本龍一。1984年から1989年までは個人出版社「本本堂」を主宰し、作曲家·ピアニストの高橋悠治との対談集『長電話』の刊行や、村上龍と2人でホストを務めたの対談集『EV.Cafe 超進化論』の企画編集など、独自の出版活動を行っていた。

 過去に『YMOコンプレックス』という著書がある文芸・音楽評論家の円堂都司昭氏に、坂本龍一の出版人としての歩みを聞いた。

「カルチャー雑誌『STUDIO VOICE』1992年12月号では、“YMO環境·以後”という特集で80年代のカルチャーを総括していました。この雑誌で使われた「YMO環境」という言葉は、YMO周辺の音楽はもちろん、彼らYMOを取り巻くメディア環境やファッション、ニュー·アカデミズムとの関連などまで含めた80年代のムーヴメントを「環境」とみて総合的に捉えたもので、坂本龍一の出版活動もその一部としてあった潮流から始まったものだと言えます。

 1982年2月に坂本は、忌野清志郎とコラボレーションしてシングル『い·け·な·いルージュマジック』をリリースしました。その後、同年5月には雑誌『ビックリハウス』(YMOも連載していた)の糸井重里による人気連載『ヘンタイよいこ新聞』のイベント『ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会』に二人で出演しています。同イベントは、当時の雑誌文化のノリが感じられる象徴的なもので、坂本龍一もそうしたサブカルチャーの中心にいたことが伺えます。現在のイメージだと想像しにくいかもしれませんが、YMOは当時ブームだった漫才番組の『THE MANZAI』に『トリオ·ザ·テクノ』の名で出演し、漫才を披露したりもしていました」

 1982年はYMOとしての音楽活動は行われなかったが、メンバーそれぞれが活動の幅を大きく広げた時期でもあった。また、坂本が出版関連でアカデミズムとの接点を持ったのも同時期だった。

「朝日出版社がその頃は当時、人気作家が先端的な研究をする学者に人気作家が話を聞く「レクチュア·ブックス」という対談シリーズを出していて、そこで坂本は哲学者の大森荘蔵と対談を行い、『音を視る、時を聴く』という本を刊行しました。翌年の1983年には浅田彰の『構造と力』(勁草書房)、1984年には中沢新一の『チベットのモーツァルト』(せりか書房)がベストセラーとなるなど、ニュー・アカデミズムのムーヴメントが起こります。そうした中で坂本は、サブカルチャー側でアカデミシャンと対話ができる文化人としての地位を築いていきます。なにせ父は坂本一亀ですし、教授という愛称で呼ばれるような硬軟両面を持つキャラクターでしたから、出版界にとっても重宝するタイプだったのだと思います。細野晴臣や高橋幸宏も、それぞれ他のカルチャーと交流を持っていましたが、中でも坂本の出版界での活動は目立っていました。

 特に有名なのは、1985年に自身が主宰した個人出版社『本本堂』で企画·編集を行なった『EV.Cafe 超進化論』(講談社)でしょう。同書は、村上龍とともに吉本隆明、河合雅雄、浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男といった論客たちと行なった対談をまとめたもので、その刺激的な内容は当時の論壇の空気を伝えるものとして、今なお一読の価値があると思います」

 『本本堂』では、実験的な“本”も刊行した。

「1984年に刊行された音楽家·高橋悠治との共著『長電話』は、その名の通り長電話を文字起こしして本にしたもので、今で言うとネットの雑談のような面白さがありました。浅田彰と対談した『水牛楽団休業』はブックレット+カセットテープで発表されていて、それも坂本ならではの“音とテキスト”の遊び方だったのだと思います。朝日出版社の『週刊本』というシリーズの一冊として1984年に刊行された『本本堂未刊行図書目録』は、大半は刊行できないだろう架空の本の目録でした。一方、1986年に発表されたスタジオアルバム『未来派野郎』に収録された楽曲『Milan, 1909』は、「Smooth Talker」というソフトで作った音で、音楽学者の細川周平による未来派の解説を朗読するという内容でした。同年には細川とともに本本堂で『未来派2009』という書籍を監修していました。坂本にとって、音楽活動と出版活動はそれぞれに影響し合うものだったのかもしれません」

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