87歳の現役スキー教師・平沢文雄「生きがいとは希望であり可能性」「スキーは今だにわからないけど、毎年上手になっている」


 今を遡ること35年前、スキーは空前のブームを巻き起こしていた。1987年、原田知世が主役を演じた映画「私をスキーに連れてって」が大ヒット。テレビでは人気番組の「サロモンスキーNOW」が放送され、海外で撮影された斉木隆、海和俊宏といった著名スキーヤーの滑りとともに杏里の曲が流れた。加えて冬のF1と呼ばれるスキー競技の最高峰、「アルペンスキーW-CUP」がライブで中継され、スラロームの第1シードで闘う岡部哲也の勇姿を目の当たりにしたものである。

 巷ではスキーシーズンになると、仕事を終えた人々が夜な夜なバスに乗り込みスキー場へ大移動を開始。最盛期の週末ともなると、新宿の高層ビル街を取り囲むようにバスの車列が数百台も並んだものである。苗場、越後湯沢、石内丸山、上越国際、野沢温泉、斑尾、八方尾根など人気のスキー場では、リフトやレストハウスの前に長蛇の列ができ、土日の関越道と中央道にはお盆並みの渋滞が当たり前となった。

 今でこそ当たり前のレンタルスキーはほぼ皆無で、みな自前のニューモデルスキーを肩に下げ、キャスターバックを引きながらゲレンデを目指した。当然、スキー業界もバブルの絶頂期を迎えた。日本のデサント、アシックス、フェニックスなど大手ウエアメーカーは海外の強豪国のチームウエアを手がけ、春のニューモデル発表会には国内外の有名スキーヤーがこぞってゲスト出演し、都心の大規模イベント会場は立錐の余地がないほど人であふれかえったものである。

 その後、90年代に入ると欧米からスノーボードが普及しブームを巻き起こし、1998年には長野オリンピックが盛大に開催されたが、スキーは往年の勢いを取り戻すことはなかった。

雪上滑走日数は、1シーズン100日を超える

 スキーが栄枯盛衰する中で、令和の時代を迎えた今も変わらずスキーの普及活動につとめるスキー教師がいる。1934年12月12日生まれの御年87歳、現役のスキー教師を務める平沢文雄だ。2021/22シーズンの雪上滑走日数は、なんと100日を超える。知る人ぞ知るレジェンドスキーヤーなのである。

写真提供=平沢スキー研究所

  そんな平沢は1961年、27歳の若さで新潟県の浦佐スキー場(廃業)で、スキー学校の初代校長を務め、卓越したスキー指導が評判になった。その後、「浦佐詣で」という言葉も生まれ、最盛期には全国からスキーヤーが集まったのである。

写真提供=平沢スキー研究所

 また1964年には、全日本スキー連盟(通称“SAJ”)より第1回デモンストレーターの認定を受けた。ちなみにデモンストレーターとは、全日本スキー連盟が提唱する最先端スキー技術を具現化できるスペシャルスキー教師のことだ。80年代から90年代にかけては、デモンストレーターの中から佐藤正人、渡辺一樹といった人気のスキーヤーが登場し雑誌を賑わせたものである。
 その後、平沢は多くの後進デモンストレーターを育て上げ、世界スキー指導者会議の日本代表役員を務めるなど、全日本スキー連盟の要職を歴任。活動の場はさらに広がり、1983年にNHK趣味講座「ベストスキー」の講師を務めたのを皮切りに、同局の「ベストスキー 中級編」が続き、1996年に「中高年のためのスキー術」を次々と手がけたのである。

写真提供=平沢スキー研究所

 また、それと並行して1986年に(株)平沢スキー研究所を創設。シニアスキーヤーを対象に、新しい滑り方を絶えず追求するベストスキーアカデミー(BSA、平沢文雄スキー塾)を主宰し、スキー普及に尽力している。

 そんな平沢の著書の一つで2008年にコスミック出版より発行され長らく絶版であった『シニアのためのベストスキー』(平沢スキー研究所)が復刊された。その名の通りシニアのためのスキー技術をまとめたテクニック本である。

スキー教師をやめようと思ったことは一度もない

 バブルが崩壊し、スキー業界から多くの人が去りゆく中で、80代後半を迎えた今もスキーの指導に情熱を傾ける。そんな衰えを知らない平沢に、スキー教師をやめようと思ったことはないのかと聞くと「一度もないよ」と即答する。

 続けて「もちろん年を取れば体力は落ちますよね。私は毎年、志賀高原の熊ノ湯で滑ってますが、リフトに向かう坂はたいへん。でも、それは自力。でも、スキーってのは体重さえあれば、誰でも上から滑って来れるんですね。だから生徒さんには技術。滑り方を工夫して、効率のいい滑りをすれば大丈夫だよと。それは自分にも言い聞かせていることなんですよ」

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