GUCCI家の争いから考える、ファッション業界の変遷 『ハウス・オブ・グッチ』翻訳者・実川元子氏に聞く

――高級ブランドが大衆化した一番の原因は、なんだったんでしょう。日本人のように、欧米の上流社会ではなくとも買える人たちがいる、ということが、国際化によって露見したから?

ハウス・オブ・グッチ 下 (ハヤカワ文庫NF)

実川:一番大きかったのは、LVMH(ルイ・ヴィトンやディオール、ロエベなどのブランドを抱えるコングロマリット企業)がDFSグループ(空港などで免税店を展開する企業)を傘下に置いたことだと思います。ハワイに自社のブランド商品を集めた免税ショップを建て、航空券と抱き合わせたツアーに参加した観光客を、現地到着後すぐにショップに連れていく仕組みを作りました。DFSのショッピングモールでは、ファッション製品だけでなく、酒、化粧品、菓子など、さまざまな商品分野のブランド品が免税価格で購入できます。ブランド品は自国で購入するよりお得感のある価格で買えるし、旅行に出て財布の紐がゆるむ観光客にブランド品を買わせるマーケティングも成功しました。そうやって売上の仕組みを作ったことで、ブランドは洗練されたデザインや、伝統やハイクラス感という価値を売るものではなくて、株主を満足させる道具になっていった。当然、それまで保たれてきた高級感は薄れます。とはいえ、ブランドの大衆化自体が悪いこととは私は思っていませんし、誰もが知っているブランドが大衆化したことで果たせる役割もあると思います。たとえば、サステナブルなファッションを推進するとか、ジェンダーレスなデザインを積極的に打ち出すことで、社会の多様性を押し広げていくとか。

――確かにそれが“かっこいい”“品がある”ということの象徴になれば、倣う人たちも増えていきますしね。

実川:今、ファッション業界が直面している問題が3つあります。まずは、環境問題。コロナの影響もあって余剰在庫は増えていますが、そもそも必要とされる量の三倍を売っている、という話もあって……。無駄が増えれば、廃棄も増えるし、染料など製造工程における環境汚染も問題です。環境に配慮した生産、需要にみあった供給体制を今一度考える必要があると思います。ファストファッションだけでなく、高級ブランドでもそれは同じです。シーズンを春夏と秋冬にわけて、毎年二回コレクションを製作して、トレンドを作ることが環境に大きな負担をかけているのではないか。グッチはコレクションの発表回数を減らすと宣言しましたね。またエルメスは積極的にバーキンなど革製品の修理を推進し、一生使い続けるだけでなく、祖母から母へ、母から子どもへと何代も受け継がれていくことも、高級ブランドの価値だと思うんです。それからもう一つは、ジェンダー問題。

――先ほどおっしゃった、ジェンダーレスなデザインを推奨するということですね。

実川:そもそも、ファッションにおける女らしさ/男らしさとは何か? 女らしいことは美しくて正しい事なのか? セクシーなデザインとは露出度が高いことなのか?グッチのクリエイティヴディレクターのアレッサンドロ・ミケーレは、ジェンダーレスなコレクションを発表していますが、それを見ると「なんだ、男/女に分けることは特に必要がないんじゃないか」と思います。ミケーレだけでなく、ファッションにおけるジェンダー意識に敏感になっているデザイナーは少なからずいます。

 そして3つ目が、貧困問題ですね。2013年のダッカ事件……バングラディシュの首都ダッカ近郊で、縫製工場の入った商業ビルが崩落し、死者1000人以上を出す事故がありました。あのとき露見したのは、何十万、何百万という値のつく商品の裏側で、アジア、アフリカや中国だけでなく、アメリカなどでも不法移民たちなどの社会的弱者、とくに女性や子供が最低賃金以下の賃金で、安全ではない環境で働かされていたという事実。高級ブランドの何十万円もする服を縫製しているのが、日給数十円の少女、ということもあるのです。

 映画では、グッチ一族がブランドを去るところで物語が終わっているけれど、それから 20年以上たった今、生産から流通までグッチをはじめとする高級ブランドは、もっと複雑な現実に直面しています。問題を直視して、なんとかしようとするブランドも出てきているのが希望です。

――実川さんが訳していていちばん楽しかったパートはどこですか?

実川:私はとにかくドメニコ・デ・ソーレが好きで。

――トム・フォードと組んでグッチを再生させた立役者ですね。

実川:そうそう。映画ではちょっとワルそうでチャラいお兄ちゃんとして描かれていたけど、原作ではちょっと違うイメージですし、彼が登場するたび肩入れしながら訳していました(笑)。彼がいなかったら、グッチはもっとはやくダメになっていたと思うんですよ。誰よりもグッチのことを理解していたのは彼じゃないでしょうか。会社のためならと、マウリツィオに、老後資金として貯めていたお金から800万円くらいぽんと個人的に貸したりもしますしね。あと、トム・フォード以前にグッチのクリエイティブ・ディレクターとして雇われていた、ドーン・メロー。私がアパレル業界で働いていたときは、雲の上のような存在というか、憧れの女性だったんですよ。この二人は高級ブランドの価値も、担う役割も、そしてモノづくりの大切さもちゃんとわかっている。そういう意味で、私は訳しながらずっと、この二人を応援していました。

――グッチ家の人たちはいかがですか。

実川:アルドは、立派な方だったと思います。男尊女卑も激しいし、読んでいて腹が立つことはとても多いのだけど、アルドなしでグッチの台頭はありえなかった、というのもまた事実。客層によって支店をつくる場所を変え、商品の陳列を変え、欲しいと思っている人のところに確実に届けていく。アメリカ進出も含めて、マーケティングの手腕は見事としかいいようがないですね。それだけに、ブランド大衆化による凋落を読めなかったところが、悲しくもありますが……。映画では、アル・パチーノが演じているのも、よかったですねえ。皿洗いするシーンがあったけど、エプロンかけて皿洗ってもアル・パチーノはアル・パチーノだな、って(笑)。

――映画ではファッションやたたずまいが実際に観られるのがおもしろかったですが、原作を読むとぐっとドラマが深まり、物語の解像度もあがりました。映画をご覧になった方にはぜひ、原作も手にとっていただきたいですね。

実川:そうしていただけると、嬉しいです。訳していて感じたのは、グッチ家の中に〝女〟の居場所がないんですよ。時代がそうだったと言われればそれまでですが、厳然たる家父長制と階級意識という、二重の差別意識が敷かれた世界だからこそ、パトリツィアはあんなふうになってしまったのだ……と納得できるところもある。パトリツィアが家族より、夫よりも希求していたステータスと、それを支えるためのお金が失われていく怖さ……生きていくことができなくなるくらいの衝撃は、やっぱり、当時の時代、そしてファッション業界がどういうものだったか、というところにも繋がってくると思うので、ぜひこちらも読んでいただけるとうれしいです。

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