トキワ荘を知らねば、大泉サロンは分からない 『萩尾望都と竹宮恵子』著者・中川右介による特別寄稿

 萩尾望都の『一度きりの大泉の話』がベストセラーとなり、話題にもなっている。

萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)

 1970年、萩尾望都と竹宮恵子が東京・練馬区南大泉にあった古い二軒長屋で共同生活をしていたときの回顧録だ。2人は2年で共同生活を解消し、その後、半世紀近く会っていない。よほどのことがあったわけで、それについては『一度きりの大泉の話』と、竹宮恵子の回顧録である『少年の名はジルベール』にそれぞれの立場から描かれている。

 2人が暮らしたのは名のない二軒長屋だったが、そこに2人を慕うように何人もの若いマンガ家が出入りし、「大泉サロン」と呼ばれるようになった。

 萩尾望都が共同生活を始めたのは、東京でのひとり暮らしを親が認めてくれなかったのが、最大の理由だという。竹宮は、「トキワ荘」のようになれるのではと期待し、それを望み、共同生活に萩尾を誘った。しかし2人を担当する小学館の担当編集者は、うまくいくはずがないと反対した。結果として、編集者の予言通り2人の関係は破綻した。

 竹宮が目指した「トキワ荘」は、豊島区にあったアパートで、手塚治虫が住み、そのあとに藤子不二雄や石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが暮らした、伝説のアパートだ。

中川右介『萩尾望都と竹宮惠子』(幻冬舎新書)

 私は昨年、『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎新書)を書いたが、その前に『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)を書き、同書が文庫になった。

 改めて、2つのマンガ家たちの共同生活について記してみたい。

 トキワ荘に手塚治虫が入居したのは1953年1月で、54年10月に退居する。その部屋に藤子不二雄の2人が入り、56年に石ノ森章太郎と赤塚不二夫が入居したことで、トキワ荘グループが完成する。彼らが退居するのは61年秋から62年にかけてだ。退居したとき、彼らは週刊誌の連載を抱える人気マンガ家になっていた。みな20代だった。

 トキワ荘は手塚入居から石ノ森退居まで9年ちょっとの歴史だが、大泉は2年。時代も10年以上離れているし、男同士と女同士と条件は同じではない。マンガ家それぞれの個性も違う。だが、最大の違いは当事者たちが語ったかどうかだ。

 トキワ荘が伝説となるのが、1970年前後だった。手塚たちは著名人となり、それぞれ自伝・回顧録を書くようになり、そこに当然、トキワ荘が登場した。さらに手塚が作った雑誌「COM」では、トキワ荘に暮らしたマンガ家たちが当時を振り返るマンガを描く企画があり、マンガファンに広く知られた。

 次にトキワ荘が注目されたのは1980年前後、皮肉にも、老朽化で壊されたときで、「手塚治虫さんたちが暮らしたマンガの梁山泊が壊される」というので、話題になったのだ。

 その後も藤子の『まんが道』やそれのドラマ化、映画『トキワ荘の青春』など、さまざまな形で描かれている。

竹宮惠子『少年の名はジルベール』(小学館)

 一方、「大泉サロン」は、それをタイトルにした本は、私が昨年、『萩尾望都と竹宮惠子』を書くまではなかったはずだ。といって、私が初めて「大泉サロン」を取り上げたわけではない。むしろ後発である。

 1980年代、「少女マンガ論」が盛んだった頃は、「大泉サロン」について書かれた評論や雑誌の特集はけっこうあったのだ。それがいつしか、「触れてはいけないタブー」になったらしく、公には語られなくなった。それは中心人物のひとり、萩尾望都がこの件について語ろうとしないからだ。

 竹宮惠子も80年代は割合と語っていたが、その後は沈黙し、2016年に『少年の名はジルベール』を書いて、大泉サロンの存在が再び注目された。それに困惑した萩尾が『一度きりの大泉の話』を書いて、より広く知られるようになった――というのが、いま現在だ。

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