成馬零一 × 西森路代が語る、ドラマ評論の現在地【後半】:価値観が変化する時代、“物語”が直面する課題とは

 ドラマやバラエティなど、数多ある番組のチェックは全録の導入でとても楽になったと語る西森路代氏とネット配信を活用しているという成馬零一氏。ともにテレビコンテンツに関する作品を刊行したばかりのふたりが対談を進めるなかで、話題になったのがドラマをはじめとするテレビ番組やそれぞれの批評における表現のあり方。今回はその話を中心にお届けする。(宮田文郎)

「ドラマ批評」について2人が語り合った対談前半はこちら

韓国のエンタメと日本のエンタメ、それぞれの姿勢

西森:私は常に韓国と日本の作品を比べながら見てるんですけど、そのなかで感じるのは韓国ドラマが好きな人は、日本のドラマをなかなか見ていなくて。でも、韓国ドラマとか韓国映画が好きな人こそ、面白いと思うような作品ってけっこうあるので、そういう作品もあるんですよってジレンマを感じています

成馬:西森さんの役割としては、普段、日本のドラマを見ていない人にも、良い作品がたくさんあるのだと言わなきゃいけないというのがあるんですね。

西森:そういう課題があるとは思ってないんですけど、あの韓国映画好きな人こそ、この日本のドラマ好きだと思うのになー、みたいな感じですかね。日本にはフェミニズムがドラマで描かれることが少ないと思われているんですけど、ぜんぜんそんなことなくて。今回『「テレビは見ない」と言うけれど』でも、その辺、韓国ドラマの現状については佐藤結さんが書かれていて、それもすごく勉強になりました。

成馬:そこは日本でも十把一絡げなところがありますね。『ハケンの品格』(2007年/日本テレビ系)や『ドクターX』(2012年~/テレビ朝日系)みたいな、強い女性をスーパーヒロインとして出しておけばフェミニズムだと思っている作り手はいまだに多い。

西森:それとは別の流れとして、『妖怪シェアハウス』(2020年/テレビ朝日)みたいなものが出てきたのは面白いなって思います。

宮藤官九郎『俺の家の話』(KADOKAWA)

成馬:今クールのドラマを観ていると、これから社会派ドラマが増えていきそうな気配はありますよね。ただ、日本の場合はまだ、社会問題や政治的なテーマを具体的に描くというよりは、寓話の形で抽象化されたものの方が主流なのかなと思います。だから『俺の家の話』(2021年/TBS系)みたいなホームドラマの方が、すごく政治的な話に見える。

西森:そうですね。どうしてもドラマっていうのは、そうなるものなのかなとは思います。でも、身近な話にこそ政治性が宿るってのは基本的なことだし、最近はそういう作品が多いし、そういうものが面白いですね。

自分の作家性を信じてる人がいちばん危うい?

ジェーン・スー『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮文庫)

西森:あと今期のドラマってけっこう空気感が切実っぽいじゃないですか。たとえば『生きるとか死ぬとか父親とか』(テレビ東京系)は、特に一話なんですけど、映像が切実っぽいというか、トーンも落ち着いてて。凄みがありましたね。映像のトーンとして『きれいのくに』とかにも近いものを感じます。なにかすごいものがこのドラマには描かれるんじゃないかという感じが画面から漂ってくる。

成馬:その不穏さから目が話せないというか。ドラマを観ていると、原作者のジェーン・スーはどう思ってるんだろう? と思います。山戸結希が撮る時点である程度は覚悟していたと思うのですが、あれこそ批評の持つ暴力だと思うんですよね。ジェーン・スーがお父さんとの関係を綴ったエッセイの構造に対して、監督の山戸結希がどういう風に思っているかが、残酷なぐらい画面に現れている。

西森:私も父親に対して、アンビバレントな感情を持ちつつ、どう折り合いをつけながら生きていくか、みたいなことがテーマなんだなと思うと、やっぱり見てざわつくのが反応として合っている作品なんですよね。そこは、放送前にプロデューサーの佐久間宣行さんと祖父江里奈さんにインタビューしたときに気づいて。でも、そういう指摘をTwitterでしてるのは、成馬さん以外にあんまり見たことがないですね。

成馬:向田邦子の時代から父と娘の関係を描くという流れはテレビドラマにあるのですが、仲の良い父娘の関係に次の時代を象徴する「何か」が現れているのかもしれないですね。山戸結希って2010年代に出てきた映画監督の中では、すごく重要な存在だと思うんですよ。先鋭的な映像表現を得意とする若手女性監督が感性のおもむくままに撮っていると思われがちですけど、個人的には凄く批評的なアプローチをする映画監督だと思っていて。たとえば少女漫画を原作とする『溺れるナイフ』と『ホットギミック  ガールミーツボーイ』は、2010年代にヒットコンテンツだったキラキラ映画に対する辛辣な批評となっている。特に『ホットギミック』はそれが顕著で、本来なら少女たちの王子様として描かれるはずのイケメン男子たちが得体のしれない怪物にしか見えなくて「でもそれが日本の現実でしょ」と作品自体が主張しているようで「おぞましい迫力」があった。この映画の公開された2019年の時点ではすでにキラキラ映画のブームが終わっていたので、あまりクリティカルなものではなかったですけど、何がやりたいのかはよくわかった。今回の『生きるとか死ぬとか父親とか』は『ホットギミック』にあったキラキラ映画に対する批評の刃を、父娘関係に向けているところがあって、彼女の作品にある「おぞましい迫力」が容赦なく発揮されていた。

西森:山戸さんがこの原作を選んだのはそこなのかなあとも思って。そういう矛盾したことが書けないのが自分にとっても、最近のちょっとしたコンプレックスではありますね。まあ、批評とエッセイとかの違いもあるかもしれないけれど。

西森路代+ハン・トンヒョン『韓国映画・ドラマ: わたしたちのおしゃべりの記録2014〜2020』駒草出版

成馬:それも今の時代だから感じることかもしれないですね。倫理的に一貫した「正しさ」が求められたのが2010年代後半だったと思うので。変な言い方になりますが『テレビは見ないと言うけれど』は、表の西森さんのしっかりとした仕事を読んだという感じなんですよ。逆に『韓国映画・ドラマーーわたしたちのおしゃべりの記録2014~2020』(駒草出版)は、ハン・トンヒョンさんとの対話を通して作品を掘り下げる中で話題が二転三転していくので、表の西森さんも裏の西森さんも楽しめた。僕の『テレビドラマクロニクル 1990~2020』は『「テレビは見ない」と言うけれど』の書き方に近いと思うんですよ。自分の中にある手癖や意見は極力抑えて、起こった出来事の記録を極力客観的に綴ろうという気持ちで書いていました。

西森:ほんとですか。私は意外と、成馬さんの『テレビドラマクロニクル』が、『わたしたちのおしゃべりの記録』のアプローチに近いような気がしていました。確かに、対話するからこそ、いったりきたりするということが出来て、そういうことは自分ひとりで書いていく上でも必要だなと思いました。たぶん、これからは、そっちに寄っていくかもしれない。ひとりで綴るときって、客観的になってしまいますよねどうしても。女性芸人にインタビューをしていく企画が始まったんですけど、ひとりひとり考えが違うので、これから1年くらいは、いろんな人の話を聞くという中で、いろんなアンビバレントさに直面する年になっていきそうかなと思います。これが正しいとか簡単にジャッジできないと思うので。

成馬:批評の対象となる作品に引っ張られたのかなぁと思うのですが、西森さんの本で中心に書かれていた2010年代後半の作品ほど「記録」として書こうと意識したころはあります。少し話が飛びますが、宮藤官九郎は一度脚本の書き方を変えたと思うんですよ。

宮藤官九郎『ごめんね青春!』(KADOKAWA)

 おそらく『ごめんね青春!』(2014年/TBS系)までは、自分の内側から出てくる感性で作品を書いていたと思うのですが、その次に書かれた『ゆとりですがなにか』(2016年/日本テレビ系)では、得意としている手法を封印し、ゆとり世代を取材し、プロットを決めないで書くというやり方を模索している。『ゆとりですがなにか』は『Mother』(2010年)と『Woman』(2013年/日本テレビ系)といった坂元裕二作品を見て、自分もこういう作品を書きたいと思って書かれた作品なのですが、その結果、坂元裕二の書き方を取り入れているのが面白くて、その後の作品でも丁寧に取材して書いている節がある。つまり、作家として自分の内側にあるものを素直に出すのではなくて、一度、対象を取材して社会のフィルターを通した上で書こうとしている。その前提を踏まえた上で、作家としての落とし所を探ってる感じがするんですよね。

西森:そうですよね。確実に。『監獄のお姫さま』(2017年/TBS系)や『いだてん』(2019年/NHK総合)は、『ごめんね青春!』を書いた頃から何か変わってないと書けなかっただろうと思うから。『「テレビは見ない」と言うけれと』にも書きましたが、宮藤官九郎ほんとに劇的に変わったなと感じはしましたね、いいほうに。

成馬:逆に言うと、今は自分の作家性を盲信して感性で書いてる人がいちばん危うい感じがするんですよね。特にドラマの脚本家は平均年齢が高いので、感性で書くと現代とはズレた価値観が暴走してしまう。野木亜紀子脚本の『MIU404』(2020年/TBS系)の第1話で、星野源が演じる志摩一未が「俺は自分も他人も信用しない」と言う場面があるじゃないですか。あれがいちばん誠実なやり方で、世の中の価値観が目まぐるしく変わっているので自分の感性だけで書くと、間違ったことを書いてしまうような気がするんですよね。

西森:私はつい最近までは、そういう理屈で考えて書くことが重要だと思っていたんですけど、さっきも言ったように、そうは言っても、それではどうにもならないことがあるということの重要性が日に日に気になるようになってきてて。

成馬:社会におけるあるべき姿とは別に人間のあるべき姿みたいなものが個人の中にあるのではないか? みたいな話ですよね。『テレビドラマクロニクル』に関して言うと、自分の感性ではなく、この時期のテレビドラマに何が起こったかを客観的に記そうって気持ちで書いたんですよね。だからこそ、自分にはわからない「無意識」の部分がにじみ出ている可能性が出てるんじゃないかと心配で、あまり触れてないんですよね。

西森:無意識は出ていてもいいんじゃないですか。

成馬:「無意識」にも何度もフィルターをかけて鍛え抜かれたものと、だらしなくダダ漏れしているものがあると思うんですよね。僕の場合は後者に対する不安が強い。言い換えると、自分が生きていく中で内面化した古いジェンダー観や無自覚なハラスメントといった「有害な男らしさ」ですね。『俺の家の話』で言うところの「殺気」が、油断すると無意識に溢れ出してしまうのではないかという不安が常にあります。無自覚にひどいことを言って相手を傷つけてしまうものじゃないですか、人間って。

西森:そうなんですよ。でも、今は、それを抑えることはそこから見えるものを抑えてしまうことになって。ちょっと前まではそんなことなかったんだけど。というか、無意識が出てしまうことを起点として、また考えていくということは重要なんじゃないかって。『わたしたちのおしゃべりの記録』に出てしまったのも、私の無意識ってことだろうとは思うんですよね。

成馬:西森さんが書いているものを読むと、そういうものは信じない人なんだって感じがあったので、それは意外ですね。

西森:確かに去年まではなかったかもしれません。『人志とたけし』で杉田さんと対談したときはなかったんですよね。なんか、社会的な変化を見ていての限界を読み取ったのかもしれません。「殺気」みたいなものをいいとは思ってないんだけど、わかったうえのほうがいいのかなあって。『俺の家の話』はやっぱり「殺気」の話があるからよかったと思うんです。なんか「あれはどういうことだったんだろう」ってずっと残りますよね。

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