成馬零一 × 西森路代が語る、ドラマ評論の現在地【前半】:批評する人は本当のオタクではないのか?

ドラマの見られ方は「断片的」に

成馬:ドラマはそのあたりが難しいところに来てますよね。基本的に昔のドラマの評価軸は視聴率だったんですよ。それに対して『踊る大捜査線』(1997年/フジテレビ系)や『ケイゾク』(1999年/TBS系)のような、視聴率はそれほど高くないけど、何度も繰り返し見て楽しむことができることから、マニアックなファンがついて最終的に劇場版がヒットするような作品が存在し、それが視聴率という評価軸に対するカウンターとなっていた。そういったソフト消費の流れが宮藤官九郎のブレイクにもつながっていたのですが、視聴率が高くてリアルタイムのイベントとして消費されるドラマと、熱心なファンがつくマニアックなドラマ、2000年代まではこの両輪で考えればよかったので、価値基準もわかりやすかった。それが2010年代以降は視聴率も下がり、コンテンツの過剰供給によって繰り返し同じ作品を見るという文化も廃れ、現在は「SNSでバズったものがとりあえず一番偉い」みたいな状況になりつつある。こういう状況で、何を基準に作品を評価するかは難しいと思うんですよ。

西森:一方で、SNSでバズったというものって、ツイート数の多いものもあれば、SNSでたくさん批評されたというものも出てきていて。最近のいい作品って後者も増えてきてるんじゃないかと思うんですよね。例えば今期であれば『今ここにある危機とぼくの好感度について』なんかがそうじゃないかと。

――成馬さんの本にも書かれていましたが、消費のされ方の変化がドラマ自体に与えてる影響も感じられますか。

成馬:SNSが主戦場となった時に、宮藤官九郎や堤幸彦のドラマにあった固有名詞を散りばめることでフックをいっぱい作って話を進めてくやり方が主流になったように思います。坂元裕二や野木亜紀子と言った脚本家のドラマはもちろんのこと、本来はそういう書き手ではなかった北川悦吏子も『ウチの娘は彼氏ができない!!』(2021年/日本テレビ系)では固有名詞を散りばめることでSNSでの話題を集める手法を取り入れようとしていた。ただ、ハッシュタグで視聴者が繋がることが目的化してしまうと、固有名詞に紐付けされた情報が、いかにネタとして消費するかということばかりが話題になってしまう。もしくは出演俳優のスクショを撮りまくったり、台詞を部分的に抜き出されて名言集的に楽しむといった人が増えていて、ドラマが断片的にしか観られなくなっているようにも感じます。

西森:物語やテーマをしっかり書いて、人から注目される固有名詞を扱い、人気俳優をちゃんと魅力的に見えるように書く。作家だったら、その3つを成立させないといけない時代になってますよね、今。

成馬:昔はなんだかんだ言っても、ストーリーが楽しまれていたと思うんですよね。今はドラマなのに、物語を最終話まで見てもらうこと自体が一番、難しくなっている。宮藤官九郎の『俺の家の話』(2021年/TBS系)みたいに最終話で意味をひっくり返すような見せ方は一種の賭けで、あの見せ方が許される脚本家はなかなかいない。一話一話で結果を出さなければいけないので、そうなると、バズりそうなキーワードを劇中に散りばめて、奇抜なキャラクターで注目を集める手法に頼らざるを得ない。

西森:全話を1話完結にみたいにすることもしなきゃいけないし。

成馬:野木亜紀子の作品も基本的には一話完結ですよね。

西森:あれも意識してのことだと思いますよね。

成馬:坂元裕二の『カルテット』(2017年/TBS系)を最近見直したんですけど、リアルタイムの時とは印象が変わりましたね。当時は、SNSの反応とセットで見ていたところがあったので、作品単体としてちゃんと内容が見えてなかった。でも、今見ると純粋な物語として最後まで楽しめる。

西森:今期の『大豆田とわ子と三人の元夫』(フジテレビ系)は、リアルタイムで見てるときには、一話一話で反応してしまうストーリー展開もあるんだけど、最後まで終わって、改めて全話みたら、違う何かがあるんだろうなあって思いますね。

ドラマ評論の主戦場

成馬:放送クールに作品の評価が決まってしまうのがドラマの難しいところですよね。どんなに素晴らしい作品でも、放送が終わると記事として取り上げることが難しい。雑誌と違ってタイムラグがないウェブメディアだからこそ、放送後にすぐドラマ評を出すということが成立していて、それは利点ではあるのですが。

西森:雑誌というかテレビ誌だと、だいたい放送が始まる前に、まだ撮影が始まる前の俳優にインタビューするしかなかったですからね。最近は、放送後もDVD発売もあるので、変わりつつありますが。

成馬:ドラマの評論って、放送中にリアルタイムで語る評価と、放送が終わった後で何を語るかっていう2種類ありますよね。僕や西森さんの本は、放送が終わった作品について書かれたものですが、僕にとってドラマ評論の主戦場はウェブメディアなので、リアルタイムで追いかけながら書くことが第一だと思ってます。ただ、ウェブだと過去の名作みたいなものに言及する機会がなかなかないんですよね。だから書籍の役割はそういう過去作の位置付けを定義することなのかなぁと、今回は思いました。

西森:私も後で書く重要性を感じますし、書籍ってありがたいなと思いました。

――リアルタイムで書くときと振り返って書くときだと時代や社会が変化してることもありますけど、批評のスタンスも変わるんでしょうか。

成馬:あとで書くと、どうしてもバイアスがかかるので、気持ちとしてはリアルタイムにおける初見の印象を一番大事にしたいです。ドラマ評論家としては放送当時に適切な評価を下せたかどうかに「勝ち負け」を感じることがあるんですよ。だから、高く評価した作品が後に名作として扱われていると嬉しく思うのですが、最近は少し複雑な気持ちになります。

 例えば坂元裕二の『問題のあるレストラン』(フジテレビ系)は2015年の作品です。『テレビドラマクロニクル』でも『「テレビは見ない」と言うけれど』の西森さんの論考でも先駆的な作品として高く評価されていますが、だったら6年前に本作を中心とした坂元裕二論の本を出せてもよかったのにと考えてしまうんですよね。そういう本を当時出せなかった自分の力不足を実感します。今年『花束みたいな恋をした』が上映されたことで坂元裕二の特集がいろいろな所で組まれるようになったけど、どうしてもウェブと紙媒体の間にあるタイムラグを感じますよね。

西森:ドラマを批評するという文化も今のようには盛んじゃなかったですからね。それこそ、成馬さんはその頃からやっていたわけだし、今、特集できるようになってよかったと思うし、これからも増えていけばと思いますね。

成馬:僕と西森さんの本も含めて、いまってカルチャー評論の書籍が増えている印象があるんですよね。2010年代ってカルチャー評論受難の時代だったと思っていて、僕と同世代の書き手もどんどんカルチャー評論から離れていったという記憶があります。だから、テレビドラマを筆頭とするフィクションの評論はどんどん先細りするんだろうなと思いながら、何とか続けてきたのですが、今考えると、こういった10年代の状況が評論に対する後ろめたさを生んでいたのかもしれません。

西森:じゃあ、これからは多少後ろめたさは減っていくのでは。

成馬:タイトルに「クロニクル」と付いている評論が立て続けに出版されてるんですよ(笑)もしかしたら今はクロニクルブームなのかな。コロナ禍で世の中が停滞しているからこそ、評論を通して過去を振り返ることで、次の時代について考える糧にしたいと、多くの人が思っている時期なのかもしれないですね。

後半(明日5月23日公開予定)では、2人が“いま”求められるテレビドラマ・物語のあり方を徹底討論。乞うご期待!

■書誌情報
『テレビドラマクロニクル 1990→2020』
著者:成馬零一
発行:PLANETS/第二次惑星開発委員会
価格:3,500円+税
https://wakusei2nd.thebase.in/items/43211263

『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』
編著者:青弓社編集部
出版社:青弓社
価格:1,800+税
https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787234865/

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