『チェンソーマン』マキマは本性は“痛いファン”? デンジとの奇妙な関係性を考える

 10巻でマキマは「私は彼のファンです」と語る。マキマはチェンソーマンを偶像視しており、その力を使って「より良い世界を作る」か「チェンソーマンに食べられ彼の一部になる」ことを望んでいた。

 これは推し(アイドル)とオタク(ファン)の関係を寓話として描いているとも言えるが、それ以上に『チェンソーマン』という作品に対するセルフコメンタリー的な側面が大きいのではないかと思う。

 大衆に支持され英雄になると、人々の恐怖心を糧としていた悪魔は弱体化するというのは『チェンソーマン』独自の設定だが、ジャンプの中で悪魔的なキワモノ路線を突き進んでいた藤本タツキにとって、人気が出てくることによって、安易に消費され、飽きられてしまうことこそが、最大の恐怖だったのかもしれない。

 「世界中がチェンソーマンを受け入れ」「さらに今はキャラクターとして消費されようとしています」「もう彼を恐れる必要がない」というマキマの台詞は、どこか『チェンソーマン』という作品が辿る末路を、作者が自虐的に呟いているようにも聞こえる。

 本作が始まった当初、多くの読者は、主人公のデンジが無知で愚かであることに対して喝采を送った。筆者も、このマンガはその場の勢いで行き当たりばったりで描いていると思い、若さゆえの初期衝動で突っ走るデンジ(と作者)の姿を評価したのだが、話が進むにつれ、無知で愚かなままだと悪い大人に搾取されるだけだという「支配の構造」が際立ってくる。同時に、行き当たりばったりだと思っていた本作の物語が、細かく伏線を張った知的なものだとわかり、作品の印象がどんどん裏返っていく。

 だが、そうなると、無知で愚かだからこそ本作は素晴らしいと思っていた読者からは「説教くさい」「小賢しい」と反発を招くのではないかと、作者自身が危惧していたのではないかと思う。その不安を具現化したキャラクターが、おそらくマキマだ。

 チェンソーマンはそんなことはしないと言って自分の理想を押し付けるマキマの姿は狂信的ゆえにアンチとなった痛いファンの言動そのものだ。その了見の狭さが完璧に思えた彼女の弱さ(人間的魅力)を炙り出していたのが、本作の素晴らしいところだが、デンジがマキマに理想を投影していたようにマキマはチェンソーマンに理想を投影し、生身のデンジのことは見ていなかった。

 だからこそデンジはマキマを倒せたのだが、それは自分が愛されていなかったと認めることでもあった。デンジとマキマのすれ違いは、男女の関係にもアイドルとファンの関係にも作者と読者の関係にも重ね合わせることができる。

 マキマがナユタという少女に生まれ変わることで、逆にデンジから庇護される立場となることも含め、様々な読み方ができる結末である。

■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

■書籍情報
『チェンソーマン』11巻完結(第1部)
著者:藤本タツキ
出版社:集英社
https://www.shonenjump.com/j/rensai/chainsaw.html

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