『鬼滅の刃』はなぜ「完結」したのか 物語の続け方/終わらせ方を考える

 どうしたら『鬼滅の刃』の連載は続くのか? ジャンプ本誌でクライマックスを迎えようとしていた2020年の春頃は、ネット上でそんな妄想やネタがよく繰り広げられていた。

 特に比較されやすかったのが、「吸血鬼(鬼)退治」や呼吸法など、多くの共通点の見付かる『ジョジョの奇妙な冒険』の第1~2部だった。確かに「ボスキャラ交代」や「主人公交代」を利用した作品寿命の延長は、『DRAGON BALL』と並んで少年漫画の王道であるようにも思える。

主人公と敵勢力の交代が行われた『ジョジョの奇妙な冒険』5巻

 連載中は「鬼舞辻無惨がラスボスで終了」なのかすら読者には判断不可能だったが、結果として2020年5月に最終話が掲載。ジャンプ漫画としては完結するのが早かった……というイメージが独り歩きしがちかもしれないが、ちょうど23巻で大団円を迎えたジャンプ作品なら『封神演義』(96年~)や『ヒカルの碁』(99年~)、『魔人探偵脳噛ネウロ』(05年~)など、各時代に表れている。

 人気の少年漫画が終わるタイミングについては、従来から注目の的になってきた。例えば「BSマンガ夜話」という漫画語りの番組なら、藤田和日郎の『うしおととら』(90年~、全33巻+外伝1巻)を語った2001年の回が印象に残る。

 全編を通しての巨悪である大妖怪・白面の者を倒した時点で物語を終わらせたことについて、「続けようと思えばいくらでも続く」「ちょっと気の利いた編集だったら、アメリカ編を始めて世界妖怪とまたやりゃあいい」などと、約20年後の我々が鬼滅語りをしているのと似たような話をしつつ、「でもそれをやったらダメな作品」と話をまとめていた。

 ではなぜ、『うしおととら』の場合は物語を続けてはダメで、『ジョジョの奇妙な冒険』は世代交代の続編が可能なのか。また、物語の構造的に『鬼滅の刃』はどちらに近かったのか?

諸悪の根源か、黄金の精神か

 大前提として『鬼滅の刃』における悪は、鬼を増やして支配できる無惨ただ一人に集約され、主人公が属する鬼殺隊はその無惨さえいなくなれば存在意義が失われる。(関連記事:https://realsound.jp/book/2020/04/post-534329.html

 これは「ねずみ算式に増える」などと、感染症のようにも喩えられる「吸血鬼もの」としては変則的な設定だ。事実、『鬼滅の刃』のベースとされる短編「過狩り狩り」(『吾峠呼世晴短編集』収録)の場合、吸血鬼の同族が世界中に散らばっており、それぞれが繁殖している世界のように読める。この短編での「鬼」は「日本に住む吸血鬼」をそう呼んでいるだけであって、起源はむしろ海外にあったのかもしれない。

 吸血鬼が同族を増やす能力も、特別扱いはされていない。「過狩り狩り」というタイトルも「鬼が人を狩り過ぎれば、鬼狩りに狩り返される」という力関係を表しており、「鬼の根絶」というよりは数の調整……、生態系のバランスを保ち続けるような「終わりなき戦い」を連想させている。

 鬼から見れば「人類との共存」とも言えそうなこの生存競争は、吸血鬼ものの一般的なテーマだが、「無惨だけが鬼を増やせて、無惨が死ねば全ての鬼が滅ぶ」と設定された『鬼滅の刃』はまずその定番を外しているのだ。

 『ジョジョの奇妙な冒険』の第1部も少し変則的な設定(吸血鬼は「石仮面」というアイテムによってのみ増殖し、吸血鬼は不完全なゾンビだけを増やすことができる)であったが、ボスキャラであるDIOを倒しても石仮面にまつわる戦いが続きうる点で「吸血鬼もの」のセオリーを踏襲していた。

 そして『ジョジョ』の主人公らは石仮面を破壊し、その石仮面を生み出した存在も地上から消し去り、世代を超えて蘇ったDIOを滅ぼし……と因果を断ち切っていくのだが、第3部以降は吸血鬼ならぬ「スタンド使い」を生み出す「弓と矢」が世界に散らばることで、何度でもボスキャラを交代させられる世界観を手に入れた。

 スタンド使いの出現の後に、『ジョジョ』の世代交代を象徴したのが「黄金の精神」という言葉だ(第4部の最終話で初出)。それまでは「ジョースター一族とDIOの因縁」を主軸にした作品だったが、この部ではジョースター家の血を引く東方仗助(日本人母とのハーフ)を主人公としつつ、彼の正義の心は母方の祖父である警官や、名も知らぬ学ランの少年からの影響を根源としている。仗助以外のキャラクターたちも持つその心が「黄金の精神」と名付けられ、新たなスタンド使いが(ジョースターの血統と関係なく)事件を起こしたとしても立ち向かえるだろう……という世界観を示していた。

 一方、『鬼滅の刃』の戦いはどこまで行っても「鬼舞辻無惨」と「無惨を生み出した産屋敷家」の因縁として終わる。産屋敷一族の「無惨を討伐するまで消えない病弱の呪い」はその象徴であるし、鬼を憎む者たちはみな産屋敷家と思いを一つにして、鬼殺隊の解隊後には全ての役割を終え、「思い出」だけが残される。

「でもそれをやったらダメ」なわけ

『うしおととら』33巻

 『うしおととら』も構造的には『鬼滅の刃』と似ており、主人公の武器である「獣の槍」とラスボス・白面の者の因縁が全編を貫き通している。それは物語構想中に『魔槍伝』や『退魔槍戦記』など、「槍」を含んだタイトルを候補にしていたことからも窺えるだろう。

 確かに、ただ悪くて強い妖怪なら他に存在していても不思議はない。だが、「白面の者を滅ぼす怨念」の塊である槍が主人公たち(「潮」と「とら」)を通じて解放されるまでの物語が『うしおととら』であり、それは白面の者がいなくなれば終わるお話なのだ。後にはただ、「潮ととらと共に戦った」という者たちの記憶だけが残る。

 『鬼滅の刃』では、執念深く受け継がれてきた「鬼を滅ぼす」という想いの強さを烈しく描くが、それは美化されるだけでなく、いつか解放されなければならない想いとしても表現される。そのことは「永遠の想いに感動して自分の後継者を求める無惨」に対し、「自分の道連れになることを生者に望まない死者たち」が対置される、完結巻のクライマックスを読んでも明らかだろう。

 理不尽な出来事から芽生える執念を描いていても、不滅の正義を描いたわけではない。その執念そのものを晴らしたい、自分以外に同じ思いはさせたくないと願った善性こそが描かれており、それは「無惨ではない敵」との戦いを望んでいないのだ。(また、その「同じ思いをさせたくない」の相手には「現代の読者である私たち」も含むのだろうか、と23巻の加筆部分を読めばほのかに伝わってくる。)

 「警官の祖父」に象徴されるような、町の日常を守ろうとする正義心を「黄金の精神」と呼んだ『ジョジョの奇妙の冒険』とは、そこで「物語の続け(終わらせ)方」が違ってくるはずなのだ。

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