『トレインスポッティング』から『パチンコ』までーー翻訳者・池田真紀子が語る、海外文学の豊かな視野

転機になったのは『トレインスポッティング』

『トレインスポッティング』(ハヤカワ文庫NV)

ーー池田さんの翻訳者としてのキャリアも聞かせてください。

池田:もともと普通の会社員だったのですが、会社を辞めようと思った時に偶然友達から出版社の人を紹介され、翻訳してみたのが最初です。バブルの終わり頃だったので、今よりはそういったチャンスが多くて、まずはチャレンジしてみようと。洋書を読んだ経験もあまりなく、翻訳についての勉強もなくいきなり翻訳者としてスタートしてしまったので、仕事を続けながら勉強していった感じです。

 転機になったのは『トレインスポッティング』の翻訳だったかもしれません。その時はまだ「今ならやめてほかの仕事にもいけるな」と思っていたのですが、『トレインスポッティング』で「あら、もうやめられないかも」と気づき、そうこうしているうちに『ファイト・クラブ』『ボーン・コレクター』で、世間的にも自分的にもいよいよやめられない状況に(笑)。

 今思うと『トレインスポッティング』の翻訳は本当に難しかった。ローカルかつその時代限定のスラングが多用されていて、英国大使館のエディンバラ(スコットランドの首都)出身の人でさえわからないような原文だったので大変でした。ただその頃は、翻訳の難易度の基準がまだわからず、そういうものだと思って普通にがんばってしまいました。今だったらそもそも引き受けないかも(笑)。

ーー『トレインスポッティング』はドラッグカルチャーを扱っていますが、ヘロイン体験の描写とか、普通の人が感覚的にわからない部分はどうしたのですか。

池田:『トレインスポッティング』の場合は映画がとても参考になりました。あとはドラッグ経験者が書いた本を読んだり。今はネットで大概のことは推測がつくので、当時ほど本を買い集めることはなくなりましたが、その頃は本が頼りでした。でも、わからなかったことを突き止めた時の「これだ!」という瞬間は、今でも一番楽しいですね。先ほどお話しした、「コンビニ」翻訳問題もそうでした。

永嶋:『パチンコ』にウルトラマンの漫画本が出てきますが、ウルトラマンはテレビが先で漫画が流行ったのは70年代の半ばから後半の頃でした。ミン・ジン・リーさんはウルトラマンに漫画原作があると思っている可能性もありましたから、ある漫画マニアにウルトラマンの漫画がそのころに存在していたのか聞いてみたところ、ちゃんと主に貸本用として存在していたことが判明しました。個人が買うかどうかは微妙ですが、存在しているなら原文通りで、というのもありましたね。

池田:そういう調べ物が結構楽しかったりします。

ーー翻訳は大変な時間がかかる仕事だと感じますが、池田さんの仕事量は驚異的です。普段どんなペースで仕事をしているんですか?

池田:依頼された作品は基本的にお引き受けする主義ですが、最近は断ることも増えました。というのも、翻訳という仕事を27年続けてきて、ようやく自分の中の基準が確立したというか、自分に向いた作品を見分けるセンサーが正確になってきたというか。以前は、断らない主義だからこそいい作品に巡り合えるという考え方だったのですが、最近はいろいろな作品を依頼していただけるようになって、逆に選択肢が増えました。もっと自分で選んでみようと思い始めたのはここ2、3年です。

ーー訳してきたなかで特に難しかった作品や、印象に残っている作品はありますか?

池田:先ほどの『トレインスポッティング』も難しかったですが、色々気を遣うところが多く、どう日本語にするかという意味で難しかったのは今回の『パチンコ』です。あとは、ケイトリン・ドーティの『煙が目にしみる 火葬場が教えてくれたこと』。これは人の死を扱った本なのですが、死を茶化すようなブラックユーモアがたくさん出てきて、日本人的な感覚だと笑っていいのか分からないポイントがたくさんありました。でもそこをユーモアにできるところがケイトリン・ドーティという書き手の魅力なんです。だからどう翻訳すればその魅力を活かせるかと、悩みながら訳しました。

ーー海外文学にも流行り廃りがあると思いますが、近年はどのような傾向がありますか。

永嶋:エンタメの分野では一時期、デヴィッド・フィンチャーが映画化した『ゴーン・ガール』のような、普通の主婦や働く女性がドメスティックなトラブルに巻き込まれ、さらに「信頼できない語り手」みたいなトリックが入る作品が流行していました。ここ2年ほどでそういう作品が減ってきて、現在はエンタメ小説の在り方が模索されている段階にある気がします。

池田:9.11のテロの後は、海外文学の世界が大きく変わったことを実感しました。アメリカ人がアメリカを見る目とか、外国人を見る目とかが変わったことが、文学作品にも反映されていたと思います。

永嶋:最近の潮流でいうと、非英語圏の人が書いた小説が明らかに増えました。一例を挙げればインド系の作家の書いたインドを舞台にしたミステリーがいくつも出てきたりとか。昔のインドはイギリスと縁が深かったので、文学系の大作家は過去にもいましたが、エンタメ系でも増えています。英語への翻訳ということでもスウェーデンやフィンランドといった北欧諸国や韓国の小説、日本でも横山秀夫さんの『64』や、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』が欧米で広く読まれています。先日も柳美里さんが全米図書賞を受賞されたことがニュースになりましたね。英語圏の読者が、より非英語圏に目を向け始めたというのは確かで、『パチンコ』もそういう流れに連なる作品かもしれません。

池田:中国語で書かれた作品が英語に翻訳されてヒットしたりもしていますね。それと女性作家も増えました。また、たとえばジェフリー・ディーヴァーの初期作品には基本的に白人しか出てこなくて、そこに黒人がまじる程度だったのですが、今はさまざまな人種がふつうに登場するようになりました。白人の方が逆に少ないぐらい。ディーヴァーを追っているだけでも、登場人物の多様化を感じます。それはここ20年ぐらいでものすごく変わったポイントかと思います。海外の小説は読むだけで楽しいものですが、世界の情勢やムードに触れることができて、豊かな視野が養われるのも魅力だと感じています。私は翻訳をできればそれだけで幸せな人間です。これからも様々な作品を日本の読者に届けていきたいです。

■書籍情報
『パチンコ(上)』
著者:ミン・ジン・リー
翻訳:池田真紀子
定価:本体2,400円+税
発売日:2020年07月30日

『パチンコ(下)』
著者:ミン・ジン・リー
翻訳:池田真紀子
定価:本体2,400円+税
発売日:2020年07月30日

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