はらだ有彩の『持続可能な魂の利用』評:おい、お前だよ、次はそこで笑ってるお前が書くんだよ、『持続可能な魂の利用』の続編を

 松田青子による初の長編小説『持続可能な魂の利用』が、その刺激的な内容から各所で話題を呼んでいる。日本に蔓延する「おじさん」的な価値観に対する“レジスタンス小説”として、鋭い批評性を持つ本作をどう読むべきか。『日本のヤバい女の子』シリーズや
『百女百様 〜街で見かけた女性たち』などの著書で知られるテキストレーター・はらだ有彩のレビューを掲載する。(編集部)

お前が書くんだよ、『持続可能な魂の利用』の続編を

 やってられねえことがある。クソみてえなことがある。毎日ある。本当にある。そして、大抵のことは今すぐに解決しない。解決しないから、「やってられねえ」まま「やっていくしかねえ」。

 「やっていくしかねえ」とどうなるかというと、息絶えそうになりながらも何とかやっていけてしまう。すなわち、「あれ? 案外、やってられたんだっけ?」という錯覚に陥る。

 『持続可能な魂の利用』の主人公は、「やってられねえ」んだけど「やっていくしかねえ」状況に置かれている、30代女性であるところの敬子。会社内での事件によって退職を余儀なくされ、失業をきっかけに妹と妹のパートナーが暮らすカナダにショートステイしてきたばかりだ。帰国早々、敬子はあるアイドルグループにのめり込む。笑顔を見せないことが特徴の、そのグループのセンターは、アイドル文化をざっくり履修していれば(もしかして、KグループのHさんかな)とピンとくるが、作中では一貫して「××」と伏字で描写される。

 と、同時に「ここではないどこか」の物語がふたつ、敬子の物語の隙間に入り込んでくる。

 ひとつは、「おじさん」の目が少女の姿を捉えられなくなった、という報告。

 もうひとつは、そんな「おじさん」に消費されていた少女の歴史を調べている、いつかのどこかの学生たちの研究レポート。

 ここでいう「おじさん」とは、便宜上のスラングだ。一定の年齢に達している男性全般を指す一般名詞ではない。「母性」を「“母”性」という言葉で呼ぶことに多々問題はあれど、「母性」という言葉から「母性」が持っている要素を想起させられる人が多く、説明を充分に賄えるためにやむなく使っているのと同じだ。違いがあるとすれば、「おじさん」が「おじさん」と呼ばれるようになった由来の方が、昏い由来が多いことくらいだろうか。

 「おじさん」に少女の姿が見えなくなった、というシチュエーションは一見するとファンタジーのようだが、実は現実世界でも起こりうる、というか、ようやく起こってきてくれた現象である。

 例えば、現実世界の「おじさん」はインターネットの台頭によって目を奪われる。手を奪われる。女がインターネットに本音を書いても、そのpostにムカついたとしても、どんな顔の女がそれを書いたのか目視して笑うことができない。探し出して殴りに行くことができない。「痴漢に遭ったら安全ピンで刺そうね」とリプライで励まし合う少女たちから、力づくで針を取り上げられない。姿が見えないから。どこにいるか分からないから。見えない女たちに一方的に「見られて」、「おじさん」は軽んじられ見下される。今まで「おじさん」たちが少女に対してそうしてきたのと、ちょうど同じように。

 ほんのりとそのイメージソースを想起させながらも、ひたすら「××」と伏字で描かれるアイドルのセンターを見ていると、最近(2020年8月)話題になった貝印株式会社のポスターを思い出す。

 ポスターに大きく書かれた「ムダかどうかは、自分で決める。」のコピーの横で、伸びるように両腕を上げる女性の腋には、毛が生えている。剃刀メーカーが体毛を剃るのも剃らないのも自由、と打ち出したことに多くの人が胸を打たれた。と同時に、まあ薄々予想はしていたが、「汚いものを見せるな」「剃らないのは勝手だが、そんなことでは誰にも相手にされないぞ」というリプライも散見された。

 このリプライたちがあまりにも世界の重要な部分とかけ離れている悲しい事実はさておき、注目すべきはポスターに起用されたのが、CGで作られたバーチャルモデル「MEME」氏であることだ。これは貝印さんの、「生身の人間の心そのものを直接傷つけさせまい」という本当に心を尽くした配慮と言える。

 生身の心、といえばもう一人。『持続可能な魂の利用』には、元・アイドルの女性、真奈が登場する。真奈はかつてファンが自分を性的に消費している様子を見せつけられ、深刻な精神状態に陥り、グループを「卒業」した。今の趣味は専らオタク活動である。アニメの中の女の子の身体を、エロいな、と眺めて癒される。アニメの女の子は性的に消費されても傷つかない。

 傷つかない。

 フィクションは傷つかない、というのは女性キャラクターのあり方を問う指摘に対して、「天眼通がぴしゃりと言ってのける真理!」という雰囲気を醸しながらしばしば用いられる主張である。

 フィクションは確かに救いである。生身の人間と自身のエロ小説を書いて相手の目につくところに置き、ちらちら覗き見て、うろうろと様子を窺うことさえしなければ。あらゆる人の目につく、あらゆる場所に置きたがらなければ。生身の人間の心を犠牲にせずに、慰めを得ることができる。

 フィクションは確かに救いである。未だ女性は体毛を処理するべきだという特に真正の根拠のない重圧が蔓延する世界で、生身の人間の心を犠牲にせずに、鼓舞されることができる。

 女を消費するな消費するなというけれど、この作者だってKグループのHさんを消費しているではないか、と言う人がいることは容易に想像できる。「××」という少女を消費しているではないか、都合のいい夢を背負わせているではないか、これから変わっていく世界の、勝利の責任を実在の少女(を明らかに想起させるキャラクター)になすりつけているではないか。

 ああ、そうだ。そして、それがダブルスタンダードだということは、そう言ってしまうことは、全然できる。私にだってできる。ではなぜ私は言わないのか?

 「いやいや、そもそも『持続可能な魂の利用』が刊行されるずっと前からアイドルを消費していた構造そのものが悪いのであって、まず「第一次消費」をしている方からツッコんでこいや」と言えるから? まあ、それも普通に言える。自分で書いておいて何だが筋の通った反論だと思える。

 でも、そうではない。

 私が「我々がどこを目指していくのか」を、よく落ち着いて、厳密に、恐る恐る手探りで掴み、松田青子さんと同じ方向を見たいと心から願っているからだ。

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