『浦安鉄筋家族』ギャグを描き続けることの凄さ 『稲中』との違いに見る、浜岡賢次の作家性

 『浦安鉄筋家族』(秋田書店、以下『浦安』)は、『週刊少年チャンピオン』で連載されている浜岡賢次の人気ギャグマンガだ。

『元祖!浦安鉄筋家族』1巻

 現在、深夜ドラマがテレビ東京のドラマ24(金曜深夜0時12分放送)枠で絶賛放送中の『浦安』は1993年に連載がスタートして以降『元祖!浦安鉄筋家族』、『毎度!浦安鉄筋家族』とリニューアルしながら続いている長寿作品で、現在は『あっぱれ!浦安鉄筋家族』(以下『あっぱれ!』)のタイトルで6巻まで刊行されている。

 物語は千葉県浦安市で暮す小学生・大沢木小鉄を中心とする大沢木家の家族と小鉄の小学校の友達たちが繰り広げる一話完結のドタバタ劇。奇抜なキャラクターが巻き起こす騒動は、さながら笑いのピタゴラスイッチとでも言うような計算された面白さで、気軽に楽しめる敷居の低さがある。それはつまり『8時だヨ!全員集合』(TBS系)のような、ザ・ドリフターズ的笑いだということだ。

 浜岡がドリフに強い影響を受けていることは、デビュー作の『のりおダチョーン』(秋田書店)の第1話や、『浦安』第1巻の8発目「腹毛が笑う日」で“元ドリブターズのかとちゃん”のラーメン屋が出てくる展開からも明らかだが、まさにこの『浦安』は「ギャグ漫画のドリフ」と言える作品だ。

 『浦安』は1993年に連載がスタートしたのだが、同時期に『週刊ヤングマガジン』(講談社)で連載され大ヒットしたギャグ漫画が古谷実の『行け!稲中卓球部』(以下、『稲中』)だった。

 当時は吉田戦車の『伝染るんです。』(小学館)のような不条理ギャグが全盛でギャグ漫画が難解で高尚なものとなっていたが『浦安』と『稲中』はそういったギャグ漫画に対するカウンターであると同時に、原点回帰的なものとして広い層から受け入れられた。しかし、この二作は同じような下品なドタバタギャグに見えても、資質は真逆だった。

 ドリフ的な笑いとパロディを繰り返す『浦安』がノスタルジックな箱庭世界の構築という方向で進化していったのに対し『稲中』のベースにあったのはバブル崩壊以降の90年代の世相を反映した貧困や格差をあぶり出す露悪的なものだった。それは一言でいうと綺麗事を嫌う身も蓋もない本音を毒舌で語るという破壊的な笑いで、同時期ではダウンタウンのテレビ番組に近かった。

 「笑い」を通して描かれていた古谷の悪意は、2000年代に入るとシリアスなものへと変わり、『ヒミズ』や『ヒメアノ~ル』(ともに講談社)といった人間の暗部をえぐる文芸路線に向かっていく。そんな古谷の変質を、当時ドキドキしながら追いかけていたのだが「ギャグからシリアスへ」という流れ自体は別段珍しいものではなく、ジョージ秋山や永井豪といった漫画家もたどった定番路線である。

 よく「ギャグ漫画は続けるのは困難で、5年も描けば作者が壊れる」と言われる。この「壊れる」とは、アイデアが枯渇して描けなくなるという意味と、ギャグ漫画が持ついろんなことを茶化してお約束を解体していくというスタイルが、作者の精神を蝕むという、2つの意味がある。

 前者はともかく、後者に関しては漫画に限らず「笑い」というものが内包する“毒”みたいなものだろう。呑み込まれたら身を滅ぼすが、うまく活かせば文学性や哲学性に転化させることができる。

 『おぼっちゃまくん』(小学館)の作者として知られるギャグ漫画家の小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』(扶桑社)で、思想を語る漫画家へと変わっていくのも同時期だったが、古谷のように文学路線に向かったり、芸人のビートたけしや松本人志のように世の中について発言するオピニオンリーダー化していくことは、むしろ定番の展開である。

 だからこそ、30年以上もギャグ漫画を描き続けている浜岡賢次には驚かされるのだ。

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