生田斗真、自身を作り上げた音楽を語り尽くす 歌手デビューの真意「踊りながら歌ってきた経験が血としてある」
俳優である生田斗真が芸能活動30周年を記念して歌手デビューを果たした。第1弾となる楽曲が、シングル「スーパーロマンス」である。プロデュースは、なんと岡村靖幸。生田はこれまで自身が出演した映画『告白 コンフェッション』(2024年公開)で、マキシマム ザ ホルモンと主題歌「殺意vs殺意(共犯:生田斗真)」を歌っているものの、今回の楽曲とはまったくテイストが異なる。
新しいステップを踏み出した生田は、歌手という職業、そしてこの楽曲にどのような思いを込めたのだろうか。記念すべき歌手としてのインタビューをお送りする。(宮崎敬太)
少年隊、SMAP、X JAPAN、KISS、日本語ラップ――生田斗真を作り上げた音楽たち
――歌手デビューの経緯を教えてください。
生田斗真(以下、生田):本当に最初のきっかけは自分が主演した映画『告白 コンフェッション』の主題歌を大好きなバンドであるマキシマム ザ ホルモンが担当してくれて、さらに亮君(マキシマムザ亮君)が「一緒に歌いませんか?」と誘ってくれて「殺意vs殺意(共犯:生田斗真)」を作らせてもらったことです。そもそも僕がホルモンと一緒に歌うなんて「まさかそんな!」って感じで、恐れ多いというか。ただ、そういう大きなチャレンジを経験したことで、明確に歌手としての活動を意識し始めました。
――舞台などではこれまでも歌唱を経験されて。
生田:そうですね。それに僕自身、もともと音楽がすごく好きなんです。いろんなアーティストのライブに遊びに行ったり、レコードショップに入り浸ったりしています。
――歌手デビューに際して「2026年、オールドルーキー生田斗真。尊敬するアーティストは、スリップノットパイセン。どうぞ、よろしくお願いします。」とコメントを出されていましたが、生田さんはどんな音楽を聴いて育ったんですか?
生田:これはずっと言いたかったんですけど、このコメントはちょっとしたボケだったんですよ! 僕としては岡村靖幸さんプロデュースの「スーパーロマンス」を踏まえて、Slipknotの名前を出して、「全然違う音楽じゃん!」というツッコミを待っていた。なのに、だーーれもなーーんにもツッコんでくれない! ものすごく恥ずかしかったです、と前置きさせてください(笑)。
――(笑)。
生田:……で、小さい頃からロックンロールが身近にありましたね。実家では母が好きなBOØWYさんや尾崎豊さんの曲がよくかかっていましたし、11歳から芸能活動を始めて、その頃の事務所の先輩たちお兄ちゃんたちがX(X JAPAN)にハマっていたんですよ。初めて(Xを)聴いた時は「こんな激しい怒りのパワーを音楽で表現する人たちがいるんだ!?」とかなり衝撃を受けました。だけど、僕が興味を持ち出してすぐに解散してしまって。大好きだったhideさんも亡くなられてしまいました。
――1998年5月ですね。
生田:僕が初めて買ったCDがhideさんの『ピンク スパイダー』なんです。亡くなった直後に発売された作品ですね。お小遣いを貯めて買った初めてのCDということもあって、このシングルにはかなり思い入れがあります。hideさんに影響されて、KISSやマリリン・マンソンも聴いていましたし、そのあと、高校に進学するとラップ文化が入ってきました。
――hideさんは今で言うニューメタル、当時だとミクスチャーやオルタナティブと呼ばれていた雑食性の高い音楽を表現されていたので、ラップも受け入れやすかったんじゃないですか?
生田:まさにそうなんですよ。KICK THE CAN CREW、RIP SLYME、RHYMESTERの皆さんたちが日本語ラップカルチャーを盛り上げていて、「こんな超かっこいい音楽があるんだ」とびっくりして、それと同時期に劇団☆新感線でお芝居をさせてもらっていました。
――古田新太さんらが在籍する劇団ですね。
生田:そうです。あそこのみなさんはハードロックとヘビーメタルが大好きなので、「Judas Priestを知らないのか?」「Metallicaは?」「IRON MAIDENは?」みたいな感じで、高校生の時からおじさんたちのメタル英才教育を受けてきました(笑)。
――そのお話を伺うと、生田さんがマキシマム ザ ホルモンに行き着くのは自然な流れですね。
生田:ほかにもいろんな音楽をたくさん聴いてきましたが、根っこにあるのはこういう感覚ですね。その意味でも、「殺意vs殺意」は大きかったんですね。ただのファンが大好きなバンドと同じステージに立っている、みたいな。本当に不思議な感覚でした。しかも、いろんな方から「生田くんは歌ったほうがいい」と言ってもらえまして。それが芸能生活30周年を目前に控えたタイミングだったので、ずっと自分のなかにあった「いつかは歌という表現にチャレンジしたい」という選択肢を真剣に考え、今ここに至るという(笑)。
――話が前後しますが、hideさんの文脈だと当時はLimp Bizkitが流行っていましたよね。
生田: そうそう。hideさんはご自身の楽曲をサイボーグロックと呼んでいたけれど、所謂ミクスチャーロックも僕らはすごく新鮮な気持ちで触れていました。最初のミクスチャー体験は、Dragon Ashの2ndアルバム『Buzz Songs』(1998年)。この作品をジュニアのお兄ちゃんに教えてもらったことです。子どもながらに「聴いたことのない、オシャレなロックが爆誕してる!」と思いました。
――たとえば、SMAPは90年代後半からすでにトップアーティストだったけど、実はかなりとんがった音楽をいち早く取り入れて、しかもポップスとして世のなかに届けていましたよね。そうした先輩たちの姿を、生田さんはどのように見ていたんですか?
生田:キャッチーであること、メジャーであることの大切さに関しては自分の根底にあると思います。それこそhideさんも、「自分の好きな音楽やジャンルを取り入れても、誰にでもわかる文脈で伝えることが重要だ」というニュアンスの発言をよくされていました。自分がかっこいいと思うことをただ好きにやっているだけでは伝わらない、って。僕もその通りだと思う。
――生田さんの芸能活動にも通じる感覚かもしれないですね。
生田:そうなんですよ。お芝居においても、マニアックなことをやっていても、テレビの向こうではちびっ子が笑えるというか、専門知識がなくても、「なんか感動するな」っていうところにまで持っていきたいというマインドは常に意識してきたと思います。その感覚の源泉をたどっていくと、SMAPや少年隊のような先輩の姿があります。王道でいることの責任と覚悟を目の当たりにして、直接浴びていたので、自分自身が直接意識していたわけではないけど、知らないうちに自分のなかに蓄積されていたんだと思います。
――そのお話を踏まえて、「スーパーロマンス」で岡村さんをプロデューサーに招聘した理由を教えてください。
生田:歌手として活動することが決まって、どういう音楽をやるか、かなり悩んだんです。亮君をはじめ、本当にいろんな人に相談しました。自分が歌手をするきっかけとなったのは「殺意vs殺意」だけど、あれはホルモンとの共演だったからやれた部分があって、毎回ひとりでヘッドバンギングの渦の中に飛び込んでいくのはちょっと想像できなかったんです。
――現実的に。
生田:そう。あと僕には前の事務所で、踊りながら歌ってきた経験が血としてルーツのなかにある。実は古田新太さんとかいろんな先輩たちから「お前、踊れるんだから歌わないともったいないよ」と言われ続けてきたんです。ただ、僕は当時事務所と「役者一本で」と決めたところがありました。歌って踊れることが邪魔になるなと思っていたこともあります。たとえば、何気なく振り返るシーンが意図せずきれいになってしまう。そういう自分に染みついた所作を意図的に消そうとしていた時期もありました。だから、先輩に「歌手もやりなよ」と言っていただけたのは嬉しかったけど、俳優としての自分の居場所を作るのに必死すぎて、自分の特徴を武器しようという変換が当時はできなかったんですよね。