宇多田ヒカル、“違い”を認め合い共に生きることへの想い Yaejiら参加、「Mine or Yours」リミックスから浮かぶメッセージ

 今年5月にリリースされた宇多田ヒカルのシングル曲「Mine or Yours」を3名のアーティストが手がけたリミックスバージョンをまとめたEP『Mine or Yours』が、11月26日にリリースとなった。本稿はそのレビューだが、その前にまず原曲について改めて読み解いていこうと思う。

宇多田流のソウル「Mine or Yours」で切り取った社会のムード

 そもそも「Mine or Yours」は、アコースティックなバンド演奏によるスローテンポのソフトなソウルナンバーだ。昨年リリースされたベストアルバム『SCIENCE FICTION』とそれを携えたツアーでのイメージーーSF的なモチーフや、ハウストラックをフィーチャーした序盤パートの盛り上がり、さらに近年のA.G. CookやFloating Pointsとのコラボ……と、エレクトロニックミュージックへの傾倒を強めていた路線とは、ガラリと趣向を変えた楽曲になっている。ストリングスの甘美なアレンジはフィリーソウルのようでもあり、一方で軽やかに跳ねる乾いたビートはモータウン風。マイケル・マクドナルド期のThe Doobie Brothers、というのもちょっと違うかもしれないが、いずれにしてもこの「Mine or Yours」は、宇多田流のオーセンティックなブルーアイドソウルだ。プロデュースと演奏陣には『SCIENCE FICTION TOUR 2024』のツアーメンバーの名前が並んでおり、馴染みのあるメンバー同士ならではの余裕のある間合いも心地よく、生演奏のサウンドもリッチ。室内っぽい反響感だが、中音域に音が詰まりすぎず、ふくよかな音色の楽器の伸びやかなタッチが絶妙だ。

 なお、このEPのデジタル版には「THE FIRST TAKE」での歌唱も収録されており、こちらは原曲にはない宇多田のスキャットなども入った歌声の生々しい臨場感をより楽しめる。原曲だと少し埋もれ気味の低音の歌唱もはっきりと聴こえるので、それぞれ聴き比べるのもいいだろう。

宇多田ヒカル - Mine or Yours / THE FIRST TAKE

 さて、室内でリラックスしているような空気感の漂う演奏と呼応するリリックからは、(おそらく)共に暮らしているのであろう〈僕〉と〈君〉の生活の何気ないワンシーンが浮かび上がってくる。また本曲は日本コカ・コーラ社の「綾鷹」のCM曲ということもあってか〈緑茶〉というワードが出てくるわけだが、それを含むワンフレーズこそ、個人的にこの曲の中で特に秀逸に感じたパートである。

〈なにか飲むかい? お湯沸かすよ/君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの〉

 まず楽曲冒頭のリリックからは、おそらく僕のちょっとした言動で〈僕〉と〈君〉の関係がちょっぴりギクシャクしていることが想像できる。つまり上記の〈なにか飲むかい?〉のフレーズは、気まずくても同じ空間にいる相手を自然に気に掛ける気持ちの表れだと読めるだろう。またその上で、“一息つきたい時に飲みたい温かい飲み物” の好みが〈僕〉と〈君〉とで異なっているということも、注目ポイントだ。そしてそこに宇多田は、〈いつもの〉とつけ加えることで、互いが“違う”ということを認識し合い、それを当たり前に受け入れているという状況までも表現しているわけなのである。

 そう、たとえ一緒に暮らしている人同士でもそれぞれの好みや価値観には違いがあるもの。だから時には少し気に掛け合いながら、同じ場所で、互いにありのままを生きていけたらーー「Mine or Yours」はそういう優しさについて歌った曲なのだが、よく考えてみるとそれは、私たちが暮らすこの社会全体に対しても言えることである。「自分とは“違う”隣人によって、自分の暮らしが脅かされている」というような、それが真実かどうかさえ無視されたストーリーを基にした排外的なアジテーションに、多くの人が強く惹きつけられている昨今の風潮。けれども私たちは結局のところ、“違う”隣人と暮らしを共にすることを、当然のように避けられない。〈僕〉と〈君〉のように1つ屋根の下で暮らしていても、だ。つまりこの「Mine or Yours」のリリックは何気ない日常を描いているようでいて、実は今の社会のムードに対し「“違う”同士の私たちのまま、共生できたなら」というメッセージも孕んでいると言えるだろう。

宇多田ヒカル『Mine or Yours』Music Video

 これは決して深読みではないはずだ。というのも、宇多田はこの曲で選択的夫婦別姓についてリリックに盛り込み、政治的なトピックを意図的に可視化させているからである。それゆえに楽曲リリース時には一部で賛否両論があったわけだが、生活を共にする2人、というモチーフを取り上げ「相手に合わせるのではなく、違いを尊重しながら、共に暮らしていくこと」をテーマに歌うのであれば、やはり夫婦別姓が避けられないトピックとなるのは、自然なこと。私的な日常の楽しみとしての音楽に、政治的な観点を急に差し挟まれることに居心地の悪さを感じる気持ちはわからないでもないが、楽曲に真実味を持たせるのにあたって、現在のこの国の婚姻制度が、家父長制を前提に片方が片方に従属する関係性を強制する構造となっている事実から目を背けられないと感じたのであろう宇多田の感覚も、また至って当然のものである。

 いやむしろ、〈君はコーヒー 僕は緑茶〉という私的な日常を起点に社会的なトピックをあえて提起していくような発想のシームレスな跳躍と広がり、奥行きこそ、宇多田の歌詞の真骨頂でもあるはずだ。

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