ヒグチアイのステージは“埋もれた物語”を照らし出す 歌とピアノで人生を祝福したソロツアー初日公演
薄暗く静寂な空間に、清らかで美しいトレモロが鳴り響く。その音に導かれるようにして〈きみはそれでいいのよと言われると/こんなんじゃダメって思う〉と彼女は歌う。
日本橋三井ホールで開催されたヒグチアイのソロツアー『ただわたしがしあわせでありますように』初日公演はこうして始まった。ステージにはヒグチとピアノだけ。1曲目は「わたしの代わり」だった。最新アルバム『私宝主義』でも冒頭を飾る曲。そのトレモロからエネルギーが湧き上がる気配を感じ、思わず体に力が入る。
ステージの様子は徐々に変わっていく。指先から生まれた音符が、宙に浮かび、渦を作り、大きく広がっていくのがわかる。重く、暗く、激しく。さらに〈ださいださいださい弱い弱い弱い〉と感情が溢れ出して止まらなくなると、それに呼応して音の粒は荒くなる。観客は息を詰めて見つめている。気づけばその渦はとてつもない力を持って、会場をまるごと飲み込みかき乱していた。
想像以上のダイナミズムに呆然としてしまう。つい、次はどんな曲だと身構える。すると今度は「恋に恋せよ」で軽快なリズムで和ませたり、「もしももう一度恋をするのなら」で優美なメロディで陶酔させたり、と思えば「雨が満ちれば」などではシニカルに響かせたりと、次々と新たな表情を見せていく。多くは『私宝主義』にも収録された楽曲だったが、その音楽性は音源よりもさらに多面的に感じられた。
にしても、ピアノ一本となるとアーティストの“芯”がよりくっきりと浮かび上がるものなのだなと改めて思う。これだけ様々な顔があっても、どれも生き生きとしている反面、常に濃密な陰がまとわりつくのだが、それでも最終的にはやわらかい光が差す。きっと彼女なりの「人生」というものへの解釈なのだろう。“ひとりの人間”の哀歓がそこにはあった。
MCでは“私ではなくあなた自身の内側を見つめる時間になれば”と話す。事前にメディア関係者向けに渡された資料にも同様のことが書かれていた。もしかしたらいま彼女が誘おうとしている世界は、私たちが心の内に仕舞い込んできた過去の数々なのかもしれない。思えばヒグチの歌詞に綴られているのは、多くが身に覚えがあったり、耳にしたことがあるであろう普遍的なものが多い。
恋の高揚、失恋の痛み、ままならない生活、失っていく若さへの焦燥。雑踏の中で埋もれがちな誰か(もしくは自分自身)の物語を掬い上げて光を当てている。でもだからこそはじめは少し戸惑いもあった。自分にも重なる話がこんなに壮大でドラマティックなものになっていいのかと。ありふれた悩みの一つだと思ってきたからだ。
けれども演奏に圧倒された後で、次第にヒグチの言葉を追っていることに気づく。彼女の指先から生み出される音にはそれだけ、言葉に耳を傾けさせるとてつもない力強さがあるのだろう。街に落ちている無数の物語の一つひとつがどれだけ美しく、決して無視してはならないものだと言われているようであり、ちゃんと聞かなくてはという気持ちにさせられるのだ。そうしてその言葉をじっくりと聞いているうちに、自身の内側とも向き合わざるを得なくなる。彼女の弾き語りではそんな体験ができるのだということを、筆者はここで初めて知った。
終盤には「花束」が披露された。やわらかく明るい音色で会場を包み、優しい歌声で慎重に問いかける。〈わたしは愛されていましたか/あなたを愛せていましたか〉。そして、最後にはこうも歌うのだ。
〈ああ、さよなら 人生は美しい/満ちているの 欠けたままで/贈る花束 もう一度飾って〉
悲喜こもごものあらゆる情景をともにしたあとでこの曲を聴くと、人生をまるごと祝福されているように響く。淡くキラキラとした何かに心が満たされる感覚。恍惚としてしまった。本公演は約90分とコンパクトだったが、そう思えないほどに充実したひとときだった。
アンコールで演奏されたのは新曲。母とのエピソードのあとで演奏されたその曲には、他者とわかりあうことの難しさ、それでもわかりたいという気持ち、その狭間で揺れながら少しずつわかりあっていく過程が丁寧に綴られている。『私宝主義』で自身を見つめたヒグチの、新たな扉が開いたような曲だった。