大江千里、万感の想いと共に始まる新たな旅路 音楽への情熱と進化を見せた41年目の第一歩
ジャズピアニスト 大江千里が40周年を締めくくる、そして41年目の第一歩を記した『BIG SOLO』ツアーのファイナル公演を、7月21日に東京オペラシティホールで行なった。昨年5月、40周年記念アルバム『Class of '88』をリリースし、夏からスタートさせた全国ツアーを成功させ、さらに“千里ジャズ”を最高の音響で楽しんでもらうべく、音響が素晴らしいクラシック専用ホールにこだわり、6月末の京都を皮切りに『BIG SOLO』をスタートさせた。大阪、名古屋、金沢、広島など全国を巡り、オペラシティホールで感動のファイナルを迎えた。
クラシック専用ホールでも大江の“スタンス”は変わらない。半袖半ズボンのセットアップにハットという夏らしいいで立ちで登場。オープニングナンバーは「YOU」だ。ジャズの薫りが漂う力強い鍵盤、躍動感あふれるリズムに客席から手拍子が起こる。「ただいま!」と笑顔で挨拶すると「お帰り」と客席が温かく迎える。「僕の千秋楽のために愛とリスペクトを持って集まってくださってありがとうございます。時空を超えて音楽で旅をしましょう!」と語りかける。
大江千里の40年は、25年間のポップスのシンガーソングライター、その後渡米して音大でジャズを学び、ニューヨークでジャズピアニストとして活動している15年間、そんなキャリアが凝縮されたこのツアーは「40年間の色々な自分の音楽をまたぐ」(大江)、まさに“BIG SOLO”な内容のツアーだ。2008年大江と一緒に渡米し、苦楽を共にした愛犬「ぴーす」(ぴ)を春に亡くし、哀しみに打ちひしがれていた大江だが、この日も“ぴ”は知人のデザイナーに発注したというハットにデザインされ、大江と共にいた。そして「この帽子は高いから(笑)」とハットにキスをして、別のハットにかぶり直す。
アルバム『Class of '88』のリードトラックにもなっている「STELLA'S COUGH」を弾き始めると、客席は体を揺らす。そして「APOLLO」はポリリズム的な構成のポップスに深化している。荘厳なホールにポップでキャッチーなメロディが次々と響き渡る。
最新アルバム『Class of '88』のひとつのモチーフとなった、1988年にリリースされた7枚目のオリジナルアルバム『1234』について、MCで当時の制作背景、心模様を丁寧に説明していた。「『1234』で僕は変わった。人生の苦しみ、壁にぶつかり毎日もがいていた。それを曲にしたポップなアルバムになった」と、前作のどちらかというと無邪気な空気が漂う『OLYMPIC』から一転、内省的な部分がクローズアップされた名盤について訥々と語った。大江の当時の胸の内をこの日知ったというファンも多いのではないだろうか。
「Answer July」は、夏の日の午後に聴きたい、優雅さの中に憂いが見え隠れするまさにこの季節にピッタリの一曲だ。音の余韻が深く広がる音響が素晴らしい空間。
愛犬“ぴ”と過ごした日々を「二人で生き抜いたようなまるで夢の中にいたよう」と語り、そのショックは計り知れないようで「亡くなっても夢の中のいるよう」と、約17年間を共にした愛犬を偲んでいた。3月に大江がnoteに記した文章を読んでいると、その喪失感にこちらも心がかきむしられる。この日も二人でアメリカ中を旅した思い出を愛おしそうに語る大江。そしてラグタイムな味付けの「The adventure of Uncle Senri」を演奏し、“千里叔父さんの冒険”のナイスバディといつも一緒だった“ぴ”と「車で旅をしていた時に見た地平線に昇る朝日から着想した」(大江)という「Orange Desert」は、まるで“ぴ”と連弾しているかのような力強いパフォーマンスだった。
「Boys Mature Slow」は、時折指を鳴らしリズムを取り、ジャズらしい自由なリズムを楽しんでいる。「I wanna Live With You(きみと生きたい)」はラテンのフレーバーを溶け込ませたアレンジでパワフルなピアノの音色を響かせる。そして「『1234』の中からみんなと曲を決めて演奏したい」と拍手でリクエストを募り「サヴォタージュ」「ジェシオ'S BAR」「夏渡し」を披露。これ以外にも多くのリクエストに応え、少しだけ立ち弾きで「GLORY DAYS」と、そして粒立ったピアノの音が切ないメロディを奏でるとさらに切なさが増幅する「Rain」を披露すると、涙を流しながら聴いているファンも多かった。
アルバム『answer july』(2017年)に収録されていた「Mischievous Mouse」は、Sheila Jordanがボーカルをとっていたがこの日はもちろん大江のピアノだけだが、コミカルで洒落っ気たっぷりの楽曲は、身体が音に合せてリズムを刻む。「HighLine Bash」は繊細かつクールなメロディを奏でるピアノの豊潤な音が印象的だった。「Bamboo Bamboo(竹林をぬけて)」は『APOLLO』(1992年)に収録されていた楽曲を『Class of '88』でジャズアレンジ。原曲とはガラッと変わった表情を見せながらも、そのピアノからは歌が聴こえてくる。客席もそう感じたはずだ。続く「エールを送ろう」と本編ラストの「Boys & Girls」では、大江もピアノを弾きながら思わず口ずさみ、客席も声を重ね、手拍子と共に会場に響き、感動が広がっていく。
アンコールの1曲目は横浜少年少女合唱団35名をステージに招き入れ、「夏の決心」を披露。
ワクワクするメロディを、美しい歌と清々しいハーモニー、よく通るピアノが奏で、交差して瑞々しい空気が生まれる。大江は「弾きながら若いエキスを吸い込んでました」と、純度が高い声との共演を心から楽しんでいた。
そしてツアーファイナルという嬉しさと淋しさが交錯する特別な日、その胸の内を吐露した。「ポップス時代は毎回、大きな場所でライブをしてアルバムの1位を目指して、ずっとランニングハイ状態だった。でも心の中は孤独で不安で『次はもうないんじゃないか』という思いでステージからの景色を見ていました。ジャズを始めて、今こうして日本に帰ってきてこんな素晴らしい場所で演奏させていただき、温かな拍手をもらえるなんて……帰ってくる場所があるんだなと思いました」と、声をつまらせながら客席に感謝の言葉を届けた。
そして「gloria」は情感豊かな音で表現し、大江も口ずさむと客席も一緒に歌い感動を共有する。鳴りやまないスタンディングオベーション。抜群の音響を誇る会場はやはり拍手の響きも違う。上から降ってくるような拍手を全身で浴び、噛みしめる大江は、帽子スタンドで大江の演奏を見守っていた愛犬“ぴ”をまるで抱きかかえるように、“ぴ”がデザインされたハットを再び被り、Wアンコールの「Arigato」を演奏し始める。どこまでも優しい音色が客席を包む。大きな拍手が“二人”に贈られまさに大団円。
大江は後日noteにこの日のライブについて「囁くような音から爆音に近い音まで弾いていたにも関わらず、実はそんなに力を使わずにまるで『風船を膨らます』ようにピアノに向かって、客席の熱気を吹き込んでいたのだ」と綴り、駆け付けたファンとの“交歓”の時間を心から楽しみ、放熱し、また“次”へと向かうんだという思いを届けた(※1)。
ポップスターからジャズピアニストへーー「世界的に見てもこんな人はいないと思う」と自身も語っていたが、この圧倒的な振り幅の中で40年間感動を届けて続けているアーティストはまさに世界的に稀有な存在だ。その振り幅の中で変わらないものがある。それは稀代のメロディメーカーであるということ。聴く人の心を潤す、ポップネスを湛えたメロディを指で歌う、唯一無二の“千里JAZZ”の多彩な世界観と、強さを感じさせてくれたライブだった。