imase、Ado、紫 今……Z世代はなぜ凡人であることを歌うのか 葛藤の垣間見える楽曲から紐解く

 〈私が俗に言う天才です〉。2002年生まれのAdoが国民的アーティストへと歩み始める足がかりとなった「うっせぇわ」の終盤では、このように宣言されている。特徴的ながなり声とアグレッシブな歌詞の同曲が社会現象となったことで、Adoはパブリックイメージとしてまだまだギラついた印象を持たれることも多いだろう。しかし一方で、Ado自身は構築されたAdo像に対し「Adoのイメージはいまだに『うっせぇわ』が根強いと思います。そのイメージと実際の私のイメージは真逆と言いますか」と発言している(※4)。また、Adoという名前が狂言の“シテ(主役)”に対する“アド(脇役)”に由来(※5)し、「私の曲を聴いてくださる方々の代わりに戦える存在」「誰かの人生の脇役になれたら」とたびたび話していることからも前述した刺々しいイメージとAdoの内面が異なっていることは明白である。このような世間からの心象とリアルの差異を表現した楽曲が、ピノキオピーが提供した「アタシは問題作」だ。同曲には〈ちょ 待ってよ なんで? 過大評価です/本音言えず 胸焼けしてる/平凡に生きて 平凡にミステイク/愛しあうって 素敵ですね〉という4行が登場し、Adoの内面とリンクしながらアイロニカルな世界観を構築していく。世の中のイメージと内実とのギャップに苦悩しながら自身が愛する“歌”を追究しているAdoの姿勢は、悩みやジレンマを抱えながら何かを求めようとする我々とオーバーラップし、共感を呼んでいるのだ。

【Ado】アタシは問題作

 ここまでimaseと紫 今、Adoの3組を取り上げ、2000年代に生まれたアーティストがどのように“凡人であること”を歌ってきたのかを紹介してきた。彼らが“天才”と称されるべき実績を残しているにもかかわらず、自身を“凡”であると捉えている理由にはZ世代に通底する自己肯定感の低さがあるのではないだろうか。Z世代の特徴として、人が自分をどう思っているのかを気にする傾向が強いことが指摘されており(※6)、SNSネイティブとも言えるZ世代は、インターネットを通じて自分よりも歌が上手い人、ギターが上手い人など、自己の上位互換のような人物を簡単に見つけることができてしまう。これは他者との相対化を引き起こし、自身を卑下するきっかけに十分なり得る。今回紹介した3組がそれぞれインターネットカルチャーと密接に連動しながらヒット曲を生み出している点も、他者との比較にリンクしていると考えられるだろう。

 他者と比べることが指先一つでできるようになってしまった現代において、3組は自身が好きなものを信念に掲げ、“平凡”であることと向き合いながら、それでも前へ前へと進み続けている。この強固な決意こそが同世代のアイデンティティと共鳴し、彼らの音楽は若者のアンセム、そして世の中のアンセムになっているのだ。

※1、2:https://numero.jp/talks114/
※3:https://natalie.mu/music/pp/mulasakiima
※4:https://smartmag.jp/archives/29014/
※5:https://www.universal-music.co.jp/ado/usseewa/
※6:https://tiktok-for-business.co.jp/archives/3831/

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