the brilliant green、Superfly、竹内まりや……元TBS制作局長と振り返る、ドラマ主題歌から生まれた数々のヒット曲【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第1回】

 A&R【Artists and Repertoire(アーティスト・アンド・レパートリー)】ーー主にレコード会社に所属し、所属アーティストの育成や宣伝戦略の管理を行う音楽業界の中でも花形と言われる職業である。今から十数年前、48歳という若さでこの世を去った“伝説のA&Rマン”と呼ばれる人物がいた。38歳でデフスターレコーズの代表取締役に就任後、ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役社長を務めた吉田敬さんである。本連載では、吉田さんの懐刀として長年様々なプロジェクトを共にしてきた黒岩利之氏が筆を執り、TUBE、the brilliant green、平井堅、CHEMISTRY、コブクロ、絢香、Superfly……数々のヒットアーティストを担当してきた同氏の仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく。

 第1回となる今回は、元TBSテレビ制作局長・高田卓哉氏に取材。当時新人スタッフだった吉田さんはどのようにテレビプロモーションを攻略していったのだろうか。ドラマタイアップの側面から振り返る。(編集部)

「どうすれば目標に最短コースで近づけるかを常に考えていた」

 敬さんに近づく旅がスタートした。

 1985年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、CBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)に就職した敬さんはいきなり国内販売促進部(いわゆる邦楽部門の宣伝部)に配属となる。

 当時のCBS・ソニーは、米米CLUB、PRINCESS PRINCESS、REBECCA、尾崎豊、久保田利伸等、シーンを牽引する錚々たるアーティストが名を連ねトップレーベルとして気を吐いていた。

 販売促進部はメディア担当の宣伝マンが各主要媒体を担当し自社アーティストを売り込んでいく組織である。自分の体力と知力と人脈でパブリシティ(テレビ出演やラジオオンエア、雑誌でのインタビューなど)を獲得してくるのが日常ルーティンだ。ゴリゴリの体育会系の組織で当時常務だった稲垣博司氏を筆頭に、個性的な先輩達が仕切っていて、各媒体に担当グループが班分けされていた。その中でもヒットに直結するほど影響力のあったテレビ局担当のグループは社内でも一目置かれていたという。

 そこに配属となった敬さんは、新人プロモーターの登竜門として、まずは紙媒体(雑誌)やラジオを担当することとなったが、テレビの現場にアシスタントとして駆り出されることも多々あったという。

 そんな中、人一倍、熱を込めてプロモーションしたのが1985年デビューのTUBEだった。

 この頃の敬さんをよく知る元TBSテレビ制作局長、高田卓哉氏に話を聞いた。

高田卓哉氏

「彼と出会ったのは、僕が制作局制作二部(音楽班)にいて『ザ・ベストテン』のディレクターをやっていた時。TUBEが広島の宇品港から生中継をやった際に、レコード会社のスタッフの中に彼の姿があった。メンバーの前田(亘輝)くんや春畑(道哉)くんと一緒にコロガシ(地面に置くタイプのモニタースピーカー)や機材を片付けていたのがすごく印象に残っている」

 後に敬さんが「Tプロジェクト」という組織を牽引することになるTUBEとの縁は、すでに新入社員の頃から始まっていたのである。若かりし頃の敬さんの姿は、どのように高田氏に映ったのだろうか。

「なんとなく気が合ったのか、彼は色んな話を僕にしてくれた。テレビ業界、音楽業界と立場が違う分、中ではしゃべれないことを、彼は僕にしゃべれるわけ。社内では言えない思いや、仕事やプライベートの相談をよくしてくれたよ」

 敬さんは、自分の生い立ちについても高田氏にこう語ったという。

「彼は、多感な時期にお母さんを亡くし、父親が再婚してできた新しいお母さんとうまくいかなかった。そこで、親元である大阪を離れて、寮生活を送れる高校に入る決断をしたんだ。その寮生活でもまれながら、世の中の泳ぎ方を体得したんじゃないかな。なんでも1人でやるというスタンスもそこで身についたのかもしれない」

  当時の仕事ぶりはどうだったのだろうか?

「彼の仕事の仕方を見てると普通じゃないよね。のんびりやろうというタイプではない。太く短くというか。入社2、3年目というと、自分がこのぐらいまでやれればいいか、こういう役割でやればいいかと思っちゃうのが普通だけど、彼はそうじゃなくて、前に出ていって、どうすれば自分のやりたいことや目標に最短コースで近づけるかということを常に考えていた。
 彼はテレビプロモーションの本質を見抜いていた。キーパーソンが誰であるかを嗅ぎ分け、アプローチすることが一番の近道。仕事につながる人間こそ、局内でつかまえることが難しい。どうやったらその人間に近づくかをいつも考えていた。そしてどんなプロモーションが刺さるかを入念にリサーチして臨んでいた」

 敬さんが九州地区(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄)のメディアプロモーションを統括する福岡営業所駐在のエリア担当を経て、テレビ、タイアップ担当になり、ヒットにつながるブッキングを量産する1990年代中盤以降、高田氏は編成部に異動となっていた。

「編成は制作と営業を連結する要のポジション。改編情報やキャスティング情報を握っていた。一つの企画を通すのに、なぜその企画を通したか、ちゃんと説明できる理由付けが重要だった。また、一部の事務所との癒着などが疑われないようニュートラルな姿勢が大事だった」

 そんな中、いくつかのドラマ主題歌タイアップがこの頃、実現している。特に僕が注目したのは、局制といわれる制作部のプロデューサーが作るドラマではなく、外注ものといわれる、編成部が外の制作会社に発注して作るドラマが見受けられることだ。しかも、ブレイク前の新人アーティストをゴールデンタイムのドラマ枠に決めていく。

・東芝日曜劇場 『ふたりのシーソーゲーム』(1996年)…TBS、テレパック制作、中村雅俊主演/主題歌:SMILE「ジグソーパズル」
・金曜ドラマ『ラブ・アゲイン』(1998年)…木下プロダクション、TBS制作、渡部篤郎、石田ひかり主演/主題歌:the brilliant green「There will be love there -愛のある場所-」

SMILE「ジグソーパズル」
the brilliant green - There will be love there -愛のある場所-

「この枠のこのドラマの主題歌を獲得するには誰にアプローチすればいいか、といった相談はよく受けていたと思います。場合によっては『編成部高田の紹介で』ということでアポをとっていたケースもあるかもしれない」

 僕が敬さんの部下になってからのこと、改編情報やドラマのキャスティング情報を把握していないと、不機嫌を露にして「お前はテレビ担当としてまだまだだな」と言われたことを思い出した。その時に必ず、編成部に行けとも。

 しかし、当時音楽番組だけでもプロモーション活動がいっぱいいっぱいだった僕にとって編成の壁は高かった。制作部のスタッフルーム大部屋と違って、外部からの直接の売り込みを拒否するかのような独特の重たい空気が流れていたように思う。高田氏と人間的な繋がりをすでに構築していた敬さんは、いとも簡単にそのハードルをすり抜けたのか。

 こうして、敬さんは、テレビ、タイアップ担当の実績を買われ、TUBEプロジェクトの責任者を任されるようになった。「Tプロジェクト」の誕生である。

「音楽に対しても、売れる売れないって感覚は鋭いものがあったし、どの曲が売れてどのアーティストが上にいくかを見定めるのも早かった。その感覚はどこで培われたんだろうね。(音楽の)専門的な知識があるタイプではなかったけど、売れるなっていうのは感覚でわかるのかね。
 また、当時の芸能界がトップダウンの世界というのを見抜いてたよね。ぐあんばーる(TUBE所属事務所)にしても、研音にしても、トップに物怖じしないで食い込んでいた」

 TUBEをミリオンヒットに導き、大手芸能事務所・研音と組んで、the brilliant green、平井堅をブレイクさせた敬さんは、Tプロジェクトから発展し、分社化した社内レーベル第1号デフスターレコーズの社長に38歳の若さで就任する。

 しかし、破竹の勢いで大成功するデフスターレコーズの社内評価はそれほど高くはなかったという。取締役との対立が深まっていたのもこの時期だ。

「彼のことをよく思わない人もいっぱいいたんじゃないかな。会社に入るとわかりますけど、仕事をしない人が一番好かれるんですよ。いい人だねって言われて、仕事をしなきゃライバルも生まれない。人から羨まれる仕事をすれば、その分すごく恨まれる。それが彼なんじゃないかな」

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