西方裕之、男女の幸せを歌った「おまえひとりさ」が異例のヒット 35年超えキャリアのルーツに迫る
西方裕之を育てた“3人のおじさん”
——昔は、それこそフォークシンガーになりたいと思っていましたか?
西方:はい。中学生くらいまでは、そんな風に思っていました。演歌を歌い始めたきっかけとしては、地元が佐賀県唐津市という漁師町なんですけど、ちょっと変なところだったんです。
——というと?
西方:当時は一家に一台カラオケ機があって、うちの近所では夜中になるとあちこちから大音量でカラオケの音が聴こえてきたんです。100メートル先の家からでも音が聴こえるくらいの大音量なのに、誰も文句を言わない。それは自分も大音量で歌いたいから。それにみんなの年代的にも、演歌ばかり聴こえるんです。
——夜中にあちこちからカラオケの歌が聴こえてくるなんて、今なら近隣トラブルに発展しそうですけど。
西方:たぶんうちの近所だけだったと思うんですけどね。それに夏の夜は窓を開けているから、余計に音が響いて。夜中の1時〜2時でも平気でした。隣のおじさんも演歌が好きで、ある時「おいヒロ、なんか歌ってみろ!」なんて言われて、その時に千昌夫さんの「北国の春」を歌ったら、「上手い!」ってすごく褒めてもらったんです。当時はたくさん音楽を聴いていましたから、演歌も歌謡曲もフォークもいろいろ知っていましたけど、人前で歌うのがあまり好きではなかったんです。でも隣のおじさんに言われて歌った時の、大音量の伴奏で歌うという快感が忘れられなくなってしまった。それに褒められると調子に乗る性格なので、そこからですよね。演歌歴は18歳からだから、割と遅いんです。
——最初のカラオケがきっかけで、他の演歌の曲も聴くようになって。
西方:はい。それ以降は近所のいろんなお宅から「歌いに来てほしい」と言われて、呼ばれて歌っているうちにどんどんハマってしまったんです。で、いつも聴いてくれる近所のおじさんが3人いて、僕の歌を録音するんですよ。で、歌い終わるとそれを聴きながら、うーんって腕組みして「あそこはこう歌ったほうがいい」とか、「サブちゃん(北島三郎)はこう歌っていた」とか、分析してアドバイスをくれたんです。こっちは遊び半分だったから、真剣な表情が衝撃的でした。それで自分でも歌を研究的に聴くようになって、そこで初めて母音がどうとか「回し」とか、歌にまつわるいろいろなものを覚えました。新しいことを知るのが、すごく楽しかったんです。
——その3人が、ある意味で歌の先生だった。
西方:完全に先生です。あの人たちに出会っていなければ、きっと歌手にはなっていませんでした。本当にただの“近所のおじさん”なんですけどね(笑)。漁師町だから海がしけの時は、漁に出られないからカラオケ大会が始まるんです。いつしか海がしけるのが楽しみになっていました。そういう“変”な街で育ったから、今の自分があると思っています。
——面白いきっかけですね。
西方:当時教わったことで印象に残っているのは、「ここに“あ”が入ってる」とか歌詞にない言葉があることを教えてくれたことです。例えば北島三郎さんの「風雪ながれ旅」という曲は〈破れ単衣に三味線だけば〉という歌い出しで、普通は〈や〉で始まるんですけど、これは北島さんの特徴で〈いや〉で始まるんです。分析するとそうすることによって、力を入れていなくても力を入れているように聴こえるんです。同じ歌い方でも頭に〈い〉を入れることで、聴こえ方がまるで違う。そういうことを教えてくれたわけですから、「この人たちはすごい!」って。そこからどんどん演歌にどハマりしていきました。