K-POP人気で表層化するアジアンヘイトや“アイドル”への偏見

 また、欧米圏でのアジア系に対する人種的な偏見以上に「K-POP」というカルチャー自体に対しては、「アイドル」という存在に対する偏見と「オンナコドモの文化」に対する無意識下の偏見という幾重にも重なった差別的な視線が存在する。これは欧米圏に限った話ではなく韓国内ですら存在するものではあるが、K-POPが市場で存在感を表すようになるまでの過去20年近く「アイドル」「アイドルファンダム」をメジャーなカルチャーとして育ててくることが出来なかった欧米圏では特に顕著と言えるだろう。

 例えば、『Teen Vogue』は以前からBTSに対する欧米圏でのレイシズム的トピックには活発に反応してきたメディアであるが、「BTSがプレティーンの少女達やマイノリティだけの間で人気という見方は偏見であり、実際は様々な人種や年代のファンがいる」「彼らの評価が『人気』に終始しがちで音楽的な評価がされないのはゼノフォビア的」という視点は、正しい部分もあるがやはり「アイドル」や「オンナコドモ文化」に対する偏見も含んだ目線も感じざるを得ない(※4)。

 BTSの場合、アメリカの韓国人及びアジアコミュニティに所属していないままファンになった人々がSNSを媒介に多様な人種と民族、都市にまで拡張し結合したことは、韓国の大衆音楽の限界とされてきた言語的・地域的な壁を崩す大きな要因となった。SNSを通じて自発的にBTSを広報して熱狂するファンダムの形はアメリカの既存の音楽市場では新しいタイプのものであり、既存メディアが知らなかった魅力的な市場でもあった。しかしこの過程において、実際に2016年ごろまでのK-POPやBTSのファンダムは「アジア系・有色人種の若年層」が多く、それがその後時間をかけてより広い層まで拡大していったものでその時点でもすでにビルボード200にはチャートインしており、アメリカ国内ではアリーナツアーを行う規模の人気はあった。そして、BTS自身のパフォーマンスやファンに対するアティテュードそのものに当時と大きく変わったことはない。大きく変わったのはファンダムの規模や多様性であって、そのような外部的な要因により注目を受けたことを「評価」されるべきであるとすること、そのような「プレティーンやマイノリティに人気」という事実や言い回しをネガティブに捉えることそのものが、欧米圏の「アイドル」という存在に対する偏見と言える。ファンダム側からもよく語られる「アイドルの枠を越えている」「そういうファン層だけではない」という擁護も、彼ら自身のアイデンティティである「アイドル」やアイドル文化そのものに対する偏見からは逃れられていない。

 「アイドル」は音楽・ダンス・ビジュアル・メンバーのキャラクターや関係性など様々な構成要素が含まれる多様な側面を持つ総合型エンターテインメントであり、それぞれのみを切り離してそれぞれを技能的面や「アート」として単独で「評価」することは不可能ではないが、そこだけではむしろ本質には迫れないというのは「アイドル文化先進国」である日本や韓国ではすでにある程度のコンセンサスがあると思われる。これらはファンダムの感情面では「メンバーへの好感」に集約され、それ故に「この人がパフォーマンスするからより感情にダイレクトに作用する(価値がある)」という強力なフィルターが存在することこそが「アイドル」の特徴でありアイデンティティのひとつでもあると言える。それを最大限に増幅させるための楽曲やパフォーマンスのクオリティであり、クオリティゆえに人気が出るわけではないが、クオリティと人気の間に因果関係がないわけがない。そのような「アイドルならでは」の特殊な捉え方やフィルターを単にネガティブなものとして捉えたり、あたかも存在しないように振る舞うこと自体がK-POPやそのグループに対する偏見と言ってもいいだろう。「K-POP」は音楽のジャンルではなく「アイドル」という大きなパフォーマンス様式と文化の中の一部であり、まずその「アイドル」という存在はどういうものなのか、そしてその中でK-POPがやってきたことや独自性はどのようなものなのかということ自体への理解がない段階では、「K-POP」をどのような面からであれ「評価」できるような立場にあるとは言えないのではないだろうか。

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