高橋優が語る、デビューから10年抱き続ける反骨精神 「僕は幸いにも過去の栄光が全然ない」

武道館やアリーナツアーを栄光というふうに変換できない

ーーそして、『STARTING OVER』が出るのが2018年ですけど、あの時は、余裕を持って音楽活動ができていることに、逆に「これでいいんだろうか?」という悩みが生じてしまったという言い方をしていましたね。それで曲が書けなくなった時期があって、そこを乗り越えて『STARTING OVER』を作るわけですけど、そう考えると高橋優は余裕を嫌う音楽家というか、現状に満足すると曲が書けないとか、そういう業を背負っているような気がします。

高橋:いや、本当にね、それは歳を取ればとるほど思いますね。ご飯会をした時とかも、僕と同世代の36、7歳の男性って、振り返りメインになったりするんですよ。高校の時にケンカが強かったとか、昔の武勇伝を自慢げに語ったりしている。自分はアドバイスする側に回っているというか、「わかるよ、俺も37年も生きてるから、教えてあげられることはあるぜ」みたいな。そういう人生を否定してるわけじゃないです。それで歌い手だった人がボイストレーナーになったり、パンクバンドのギタリストが教則本を出したりとか、めっちゃいいことなんですけど、僕は幸いにも過去の栄光が全然ないんで。

ーー(笑)。そんなことないでしょう。

高橋:いや、全然ないですよ。武道館やアリーナでやらせてもらっても、それを栄光というふうに変換できないというか。やったらやったで毎回反省するし、それを栄光と思わずにさらに転がり続ける気持ちが、幸いにも僕の中にはあるので、振り返って「いやー、あの頃はね」というふうに消化できないんですよ。それなのに、5周年の時にベストアルバムを出したりとか、何かやり遂げたみたいなニュアンスで祝ってくれたりすると、一瞬悦に入る感じもあったんですよね。「俺もかっこよくなれたのかな?」みたいな。でもすぐに、そんなちっちゃな栄光でかっこよくなれたと思っている自分がハズい、みたいな感じになるんですね。

ーーわかります。

高橋:それぞれに幸せの形はあると思うんですけど、僕が貪欲なのか幸せに対して不感症なのかわからないけど……幸せだなと思うタイミングはいっぱいあるんですよ。あるんだけど、今年37歳になる年で、「かっこいい」と思う人がまだ周りにいっぱいいるんですよ、バンドマンでもシンガーでも。それで焼きもちが始まるんですよ。「いいなあ、ああいうふうになれたら人生バラ色だろうな」と思って、いろんな人と接していると、僕のことをそう思っている人に出会ったりするんですね。「優さんの人生はバラ色だと思ってました」とか。「でも会ってしゃべってみたらすごい目が死んでるから超好感持てました」とか。

ーー(笑)。ひどい。

高橋:全然ほめられてないじゃんとか思いながら(笑)。でもそう言われて、「やっぱり俺はまだそっち側の人だな」と思うんですね。そういうことがあって、たぶん『STARTING OVER』のあたりは、あらためてそれを認識した時期だったのかな。それと、実は僕、親に家を建てることが夢だったんですよ。

ーーあ、そうなんですね。それはいい夢。

高橋:でしょう? 家を建てるなんて夢のまた夢だと思っていたんですけど、大きい家を建ててあげたくて、建てちゃったんですよ。『来し方行く末』の頃なんですけど、そこで「じゃあ夢がかなったということか?」という自問自答が始まったわけです。親に家を建てられたことはすごくうれしかったし、ずっと自分が思い描いていた、家に親が入っていく瞬間を目の前で見れてうれしいなという気持ちを味わったんですけど、やっぱりそれはそれというか、それは勝手に俺が親にやっただけのことであって、自分自身の人生がそれで完結したのか? というと、そうじゃない。自分を育ててくれた親に感謝するのは当たり前のことだし、感謝の気持ちを表しただけであって、じゃあそこから自分はどうなるの? という時に、「まだ自分のことは何もやっていなかったな」という気持ちになったんですね、『STARTING OVER』のあたりで。

好きで続けてさえいれば、なにかしら生きていける

ーーすごく面白い話です。ちょうどその頃でしたっけ、『秋田CARAVAN MUSIC FES』を始めたのも。それも両親に家を建ててあげるのと同じ気持ちで、地元の秋田に感謝の気持ちを表したかったということだったんですか。

高橋:そうですね。僕、秋田が大嫌いで秋田を出たんですよ。何もないじゃないかと思って、北海道に行って、すぐホームシックになって「秋田大好き。帰りたい」になるんですけど(笑)。それを音楽で還元したいというか、感謝の気持ちを形にしたいと思うまでには少し時間がかかったんですけど、自分を育んでくれたルーツだし、僕は秋田県に生まれていなかったら歌を歌っていなかったと思うんですよ。僕が生まれた地域の人たちは、人の目を気にする人が多くて、曲を書いても、エロ本を隠すのと同じぐらいの感じで誰にも見せたくなかったんです。机の引き出しに入れて、鍵を閉めてましたもん。これは何度もお話していますけど、一回だけバンドでやった時なんて、「ハイスタの曲でもゴイステの曲でもないけど誰のコピー?」「オリジナル」「え、オリジナルとかやるの?」って、恥ずかしいことをしているみたいに言われて、そういうところに生まれたらそういうものだと思うじゃないですか。

 東北民は、まさかうちの地域から芸能人なんか出るわけねぇんだからよっていう感じなんですよ。黙って農家を継いだほうがいいんだよ、みたいな。実際に言う人はいないけど、そういうムードがあるんですね。それは僕が若い頃に肌で感じたことなので、誰がどうこうだったという話じゃないですけど、そういう場所に生まれたから反骨精神を持ってやっていく精神が芽生えたというか、抑えられるほどに解放したくなる、十代の頃はずっとそうだったから。北海道で路上をライブをやってる時も、痰をかけられたり、ギターケースをけられたり、お客さんに襲われたり、本当にいろんな経験をさせてもらって、それを一言で表現するならば「歌うのやめましょう」ということになってくるんですよ。

ーーうーん。そこまで。

高橋:これだけいろんな人に心配かけて迷惑かけて、歌っていくほうが絶対にいいことはないということを、歌を始めた16歳から22歳ぐらいまでずっとそんな感じだったんですよ。今のマネージャーをやってくれている人に出会うまでは、ずっとそんな感じ。だからね、デビューして10年というけれど、「歌うのやめましょう」と思いながら歌っていた時間のほうがまだ長いんですよ。そのおかげで今でも、何者かになれたような気持ちにはなれないし、まだまだやれる気がするとか、あの時の自分を成仏させるためにはまだこんなんじゃ足りないという気持ちもいっぱいあるし。そう言うと怨念みたいで怖いですけど。

ーーでもそういう怨念みたいなものは、歌の中からは感じないですけどね。

高橋:それは、その人たちのおかげだと思っています。ああいう人たちに囲まれていたおかげで、「あんたなんて才能ないんだから」と言われて、悔しい思いをしている子たちに対して、「俺だってここまでやれてるんだから絶対君はできるよ」と言いたいんですよ。僕に何の才能もなかったとしても、10年続けて、武道館でもやらせてもらうことが僕にできるんだったら、今どこかの田舎でこの記事を読んでいる人にも、「そんな時期もあるさ」「大丈夫、好きなら叶う」と言いたいです。好きで続けてさえいれば、なにかしら生きていけると言いたいです。

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