目黒鹿鳴館は〈地下〉と〈地上〉を繋ぐトンネルである ジャパメタ~V系バンド、聖地としての存在意義
考えたらかつてのジャパメタバンドたちは皆、メタルに不可欠な様式美的世界観を鹿鳴館のステージで再現しようと、自ら日曜大工で工作したと思われるバンドロゴやら棺桶やら十字架やらを持ち込んで飾っていた。「とにかく」トゥー・マッチで「とにかく」生き急ぐ初期V系バンドは、面白いけど物騒だった。
つまり、新しくて面白いけども一歩間違えたら「箸にも棒にもかからない」案件の数々を、果敢に常連にしちゃってきた冒険魂と懐の深さこそが、鹿鳴館そのものなんだと思う。しかもどのバンドも鹿鳴館に出演するのは初期だけで、売れそうな頃にはもういないというのがわかりやすいじゃないか。
まさに鹿鳴館とは、そんな〈地下〉と〈地上〉を繋ぐトンネルとして、40年間も目黒に存在し続けてきたのだ。
とここまで持ち上げておきながら、鹿鳴館のライブ体験の記憶がほとんどないから怖い。
えーと……たしか1990年のお盆だったか、YOSHIKIに誘われ「エクスタシー・レコード夏の納会(失笑)」に行ったら、全国チェーンの某大衆居酒屋の貸切座敷はXを筆頭にLADIESROOMとかZI:KILLとかTOKYO YANKEESとかLUNA SEAとか、ノーメイクのV系だらけ。「どわぐわうっしゃああ!」的野太い咆哮とジョッキを猛烈にぶつけ合う音と怒濤のイッキの嵐の末に、すぐ隣りの別の居酒屋チェーンの店に移動。ここから合流した大阪勢のダイナマイト・トミーが名刺代わりにテーブルを次々とひっくり返す。すると上半身裸のYOSHIKIが負けじと酒と料理が大量に並ぶテーブル上にダイブーー結局、YOSHIKIとトミーが破壊し尽くしたコップや器の破片が一面に散乱する畳の上を、靴を履いたままガシャガシャ歩く立食パーティーと化したような……。
鹿鳴館界隈の居酒屋を全て出入り禁止になった想い出しかない我々って。
■市川哲史(音楽評論家)
1961年岡山生まれ。大学在学中より現在まで「ロッキング・オン」「ロッキング・オンJAPAN」「音楽と人」「オリコンスタイル」「日経エンタテインメント」などの雑誌を主戦場に文筆活動を展開。著書に『逆襲の〈ヴィジュアル系〉-ヤンキーからオタクに受け継がれたもの-』(垣内出版)、『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック)などがある。