森口博子、『ガンダム』シリーズと歌への思いを語る「これまで会った人々の思いが自分の32年間」

森口博子、『ガンダム』と歌への思いを語る

 1985年8月、ニール・セダカ作曲のTVアニメ『機動戦士Ζガンダム』二期オープニング曲「水の星へ愛をこめて」でアイドル歌手として芸能界デビューを果たした森口博子。彼女がパチンコ新機種『CRフィーバー機動戦士Zガンダム』の挿入歌として提供した最新シングル「鳥籠の少年」で、約32年振りに『機動戦士Ζガンダム』の世界に帰ってきた。バラエティ番組でも活躍できるアイドルのパイオニアとして多くのTV番組に出演しながらも、一貫して歌やライブを大切にしてきた彼女は、これまでに岸谷香、広瀬香美、亀田誠治、小西康陽、秋元康、西脇唯、前山田健一(ヒャダイン)など様々なクリエイターたちによる楽曲を歌ってきた人物でもある。今回の『鳥籠の少年』には、タイトル曲の他、同じく『CRフィーバー機動戦士Zガンダム』の挿入歌として森口自身が歌詞を手掛けた「生命の声」や、デビュー曲「水の星へ愛を込めて」のオリジナルバージョンも収録。キャリアのスタート地点から現在までがひとつの作品に収まった作品の制作過程や、長く第一線で活動できる秘訣について聞いた。(杉山仁)

自分が思い描いていないところにチャンスがある

ーー森口さんは10代の頃、85年にTVアニメ『機動戦士Ζガンダム』のOP曲「水の星へ愛をこめて」でデビューします。この頃の森口さんは歌に対してどんなことを考えていましたか?

森口博子(以下、森口):私は4歳からずっと歌手になりたくて、でも何度も何度もオーディションを受けては落ちていたので、やっと手を差し伸べてくれたのが『機動戦士Ζガンダム』でした。当時は「ようやく夢が叶った!」と憧れていた世界に夢いっぱいの少女でしたね。でも実際にフタを開けてみると、まだ当時のアニメは世間的には今と状況が違う部分もあって、音楽業界の中では少し寂しいポジションだったんです。同期のアイドルの子たちはレコード店に専用のラックがあるのに対して、私の場合はもちろんそれもなかったですし、お店にレコードがあったとしても端っこの方に少しだけで、「これじゃ分からないじゃない!」と悔しく思っていましたね。「とってもいい曲なのに、これじゃ届かない!」って。それで、同じ「ま」行の松田聖子さんのラックに自分のレコードを紛れ込ませたりもしていました(笑)。

ーーせっかくいい作品なのに、「これでは気づいてもらえない!」と。

森口:そうですね。デビューできて嬉しかった半面、寂しくて悔しい時期でもありました。その後しばらくして事務所からリストラ宣告を受けて、地元に帰されそうになって……!

ーーそこで「何でもやるので帰さないで!」と言った結果、TVのバラエティ番組で「雄のロバを口説きにいく」仕事がきたそうですね(笑)。いきなり言われても戸惑ったと思いますし、なかなか大変なお仕事だと思うのですが、なぜ「やろう」と思えたのでしょう?

森口:とにかく歌が歌いたかったからですね。これはバラエティのお仕事だけど、この先にはきっと歌があるんだ、歌に繋げていくんだと思っていたので、まずはこのお仕事で顔と名前を憶えてもらおうと自分の中で目標を立てていました。「森口博子という名前をみんなが覚えてくれたら、事務所の人たちもやりたいことをやらせてくれるかな?」って(笑)。これで終わるはずがない、終わらせないとも思っていて、歌以外のお仕事にも全力投球でした。このスタンスは私の中では今も変わっていなくて、その結果バラエティの活動がまた歌のお仕事にも繋がっていったので、とにかくいろんなことを全力でやっていましたね。

ーー当時のお仕事で、何が一番大変でしたか?

森口:当時は公開録音のようなものが多くて、他のアイドルの子たちは「〇〇ちゃーん!!」とお客さんがすごく盛り上がっているのに、私が行くとすごくシーンとしてるんです(笑)。その空気の中で歌うのが、寂しかった思い出はありますね。北海道の雪まつりに行ったときも、私の前に同期で同じ事務所の松本典子ちゃんが出ていて、典子ちゃんが歌い終わったら、そこにいた何千人というお客さんがワッと典子ちゃんに付いていったんです。それで私が自分の曲のイントロに合わせて登場したら、お客さんがちょうどいなくなっていくという……。その中で歌ったときは心が折れました(笑)。でも、当時の私は17~18歳なりにちょっと勝気な女の子で、「必ずしも人の心に届くものが、露出と比例するわけじゃない。他にもいいものはたくさんあるんだ」って思っていましたね。チャンスをもらって他のアイドルの子たちと同じ状況でやらせてもらって、その上で「才能がないから九州に帰りなさい」だったらまだ納得はいったと思うんですけど、「大人は何も見ていないのに、何で地元に帰そうとするんだ!」ということが、若いながらに納得がいかなかったんだと思います。でも、そのときにありがたかったのは、レコード会社の方が、ずっと私のレコードを出し続けてくれたこと。これはもう、私の宝物です。歌手としてなかなか売れない中でも可能性を信じて、ずっと曲を出し続けてくれたのが本当に嬉しかったので。当時の私は、今考えると本当に生意気な話ですけど……事務所のマネージャーに「レコードが売れないんじゃなくて、売ってないんじゃないんですか?!」って言ってました(笑)。だって、お店に行ってもレコードがないんです……。「それじゃあ売れないよ!」って。若かったですネ!

ーーそこからバラエティ方面にもどんどんお仕事が広がっていったことで、それが歌に還元されていく部分はありましたか?

森口:もちろんです。あの時代は、バラエティの中にも歌のコーナーがあったりしましたし、バラエティで名前を知ってもらったからこそ、曲を出すたびに『ミュージックステーション』や『MUSIC FAIR』のような歌番組に呼んでいただけるようになりましたし。バラエティでのお仕事が、歌のお仕事に全部繋がっていきました。本当に若い頃の私が思い描いていたように「歌を歌い続けるんだ!」ということが、いろんなものを頑張ることで可能になっていったと思います。

ーー森口さんのそうした活動が、今のアイドルの人たち/バラドルの人たちに道を開いた部分も大きいと思うのですが、ご自身ではどう感じていますか?

森口:どうでしょうね? 私の場合、最初はまさか自分がバラエティをやるとはまったく思っていなかったので。でも、今思えば、デビューのきっかけになったオーディションを最初にボイトレの先生に勧められたとき、私はちょうど受験生で一度お断りしているんですよ。うちは母子家庭で、県立の学校に行かないと経済的にも負担をかけてしまうので。断ったことを買い物から帰ってきた母親に伝えたら「これまでいろんなオーディションを受けて落ちまくってきたんだから、肩の力を抜いてチャンスのひとつとして受けてみればいいじゃない」と言われて。それで受けてみたら福岡大会で優勝して、全国に行って、平尾昌晃先生とペアを組ませていただいて、デビューが決まってーー。それはつまり、「自分が思い描いていないところにチャンスがある」ということで。今の若いアイドルの子たちも、どこにチャンスや自分の可能性があるかは分からないので、与えられたことに全力で臨んでみるのは、世界が広がってすごくいいことだと思います。きっと誰かが見ていてくれているはずです。

ーー森口さんはその結果、90年代に入ると『NHK紅白歌合戦』に何度も出演するまでになりました。

森口:これは本当に、いくら若い頃の勝気な私が「レコードを売ってないからだ!」と言っていたとしても、その当時からいろんなことを受け止めて待ってくれていた人たちのおかげだと思います。隙間を縫うようにして見つけるしかなかった私の存在を当時から応援してくれたファンの方や、バラエティで私のことを知って歌にも響いてくださった方、世代を越えて「バラエティの面白い人かと思っていたら、歌声で泣きました」と言ってくれる若い子とか、みなさんが必要としてくれたからこその結果なので。身近な事務所のスタッフのみなさんもリストラ宣告をされた中で「この子は大丈夫だから」と上司の人にかけあってくれたり、手弁当でTV局に連れていってくれて、その喫茶店で「よろしくお願いします!」とお願いしてくれたり。これは最大の誉め言葉なんですけど、いい意味で私もスタッフもファンのみなさんも、しぶとい(笑)。この全ての出来事に本当に、ありがとうの気持ちでいっぱいです。

ーー1991年に自分の持ち曲「ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜」で最初に紅白歌合戦に出場したときは、感慨深かったんじゃないですか?

森口:初めてオリコン9位にチャートインして、感激しました! あのNHKホールの会場に出ていって、みんなが「博子ちゃーん!!」というコールをくれたときに、「1年の終わりを応援してくれたみんなと大好きな歌で締められて、幸せだなぁと。しかもバラエティタレントだと思われていた私が、歌手としてみんなに知ってもらえるなんて」と思って、本当に嬉しかったです。もちろん、それまでも歌手としての活動をやらせていただいていましたけど、そのスケジュールって1年の中で本当にちょっとだったので。でも、届けたいことはたくさんあって、とにかく「届けたい」と思っていましたね。森口博子の方程式じゃないですけど、歌があって、バラエティがあって、その結果歌の活動が膨らんでいく、という経験でした。

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