愛知県豊田市に“音楽フェス”を根づかせたパンクスの精神 炎天下GIGからの歴史を紐解く
愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置くこの街には、ライブハウスやクラブといったバンドが演奏する環境が無い。
それにもかかわらず、20年ほど前からこの街では様々な音楽が盛り上がりを見せ、現在では毎年10月に行われる『TOYOTA ROCK FESTIVAL』、5月に行われる『橋の下世界音楽祭』、7月に行われる『TOYOTA PUNK CARNIVAL』という3つの音楽フェスが行われている。
TOYOTA ROCK FESTIVAL(通称トヨロック)は、トヨタスタジアムの外周部分の半分以上を使って行われるロックフェスティバルで、今年で11年目を迎える。今では2日間で延べ人数35000人ほどが訪れる豊田市最大のロックフェスティバルとなっている。
橋の下世界音楽祭は、毎年5月に豊田大橋の橋の下に1から手作りで街を作り上げて行われる音楽祭で、東日本大震災の翌年から始まり、今年で6年目を迎えた。他の様々な音楽フェスとは一味違った日本ならではの音楽祭である。(参考:『橋の下世界音楽祭』主催者・TURTLE ISLANDが語る、海外と日本のフェスの違い)
TOYOTA PUNK CARNIVALは今年で5年目を迎えた、トヨロックと同じくトヨタスタジアムの外周部分を使って行われるフェスである。フェス開始当初は若手パンクバンドだけで行われたフェスだが、去年あたりからベテラン、若手を問わず国内のパンクバンドが出演するようになり、今年は筆者のバンド・DEATH SIDEのほかにも原爆オナニーズも出演するなど、パンクにこだわった音楽フェス。若手が手作りで作り上げる、今後の期待が大きいフェスである。
そして、この豊田というライブハウスもクラブも無い街で、こうした大きな音楽フェスが行われるようになったきっかけは、豊田市駅前で20年以上前に始められた『炎天下GIG』であると言って良い。
豊田市駅前に“バンドが演奏できる環境”を作った炎天下GIG
炎天下GIGとは、現ROTARY BEGINNERSのSOGAを中心に始まった駅前ゲリラGIGであり、そして現TURTLE ISLANDのボーカル、橋の下音楽祭の主催であるYOSHIKIと、豊田のハードコアバンドORdERのKOHSUKEが中学の同級生で、一緒にバンドを始めたのも事の発端のひとつである。
YOSHIKIとKOHSUKEの二人は中学1年生のときにバンドをやり始め、パンクファッションで豊田市駅前をウロウロしていると、モヒカンやスパイキーヘアーなどのパンクな出で立ちでタムロしていた現ROTARY BEGINNERSのSOGAとその仲間たちにブーツを獲られそうそうになった。
その「ブーツ狩り」での出会いが、今の豊田音楽シーンの始まりだった。
ブーツ狩りにあったYOSHIKIとKOHSUKEは、自分たち以外に初めて見るストリートのパンクスに嬉しくなり質問攻めにあわせると、調子の狂ったSOGAたちはブーツ狩りをやめ、YOSHIKIやKOHSUKEと打ち解け仲良くなっていった。
この出会いにより、SOGAがその頃丁度計画していた出演者も参加者も無料のライブをやろうと思い立ったのが、1990年代に駅前の野外で行われていた炎天下GIGである。そして、ライブハウスのない豊田市でライブをやろうと思い目をつけたのが、どこかの貸しホールや公民館などではなく、市内で一番人の集まる豊田市駅前だった。これに、先のSOGAたちとの出会いにより中1だったYOSHIKIとKOHSUKEは徐々に色濃く関わっていくことになる。
駅前のスペースを使った野外ライブのため、警察や役所、駅などに許可をもらいに行ったのだが、全て門前払いをくらったために「無許可ゲリラライブ」として炎天下GIGは始まった。
当時中2だったYOSHIKIとTURTLE ISLANDのベーシストGOTOUは部活の大会をサボって記念すべき第1回目の炎天下GIGを観に行き、大変衝撃を受けたという。出演はSOGAの当時のバンドBURST HEAD MOTHER、豊橋で活動するバンド・現OUTSIDERのこまっちゃん(Vo)のバンドDISREGARDなど、三河のHCバンドを中心に地元のロックバンドなど多数が出演。第2回目からは元MANIAC HIGH SENCEのメンバーなどと当時組んでいたYOSHIKIのバンドが出演することになったのが運の尽きで、それ以降SOGAから「お前がやれ」と言われ、中学生にもかかわらずYOSHIKIを中心に炎天下GIGが行われるようになっていった。といっても段取りを投げられただけで、実際はSOGAが中心になりYOSHIKIらと近辺のハードコアやパンクバンド、ロックバンドなどをブッキングしていたのが炎天下初期のことだ。
基本的に無許可ライブのために、電源の確保から近隣住民などの苦情処理や警察の対応、機材の手配まで全て自分たちで行った。中学生のため運転免許もない二人は、遠くからアンプを転がして運んだり、電源の確保のために土建屋の先輩から発電機を借りるなどして対応していた。
街の中心部である駅前の無許可ライブのために、毎回警察がやってきていたが、主催者が話をすると帰っていくという、半ば黙認状態のライブだった。
筆者が経験した炎天下GIGでは、警察がきても主催者が対応して帰したあとに一人のパンクスが演奏中のバンドのボーカルにタックルしたために、30人ほどの観客に追い回されていた。
その間も演奏は続いており、ここまで無法地帯になるライブを久々に観た。駅前でそこまでの大騒ぎになっているのにもかかわらず、警察が来ないのは不思議だったが、これぞパンクのライブだというものを久々に堪能した記憶がある。
炎天下GIGにも移り変わりがあり、SOGAら世代を中心にYOSHIKIら中学生数人で開催していた初期と、その後YOSHIKIがORdERを脱退したあとは、KOHSUKEが中心となっていたようだ。
そうして続いていくうちに、県外のバンドもツアーの日程に炎天下GIGを組み込むなど、毎回出演する県外のバンドなども出てくるようになり、全国のパンクスの間で炎天下GIGの知名度が上がっていった。
こうしてライブハウスの無い豊田という街でもバンドの演奏ができる環境を作ったのが、炎天下GIGである。