香月孝史が『HKT48 指原莉乃座長公演』を振り返る

HKT48が明治座公演で見せたグループの新機軸 座長・指原莉乃はどう振る舞ったか?

 第一部の演劇は、娘歌舞伎一座の花形、阿国(宮脇咲良)と、阿国に憧れて人間に化け一座にもぐりこもうとするたぬきのキヌタ(指原莉乃)の関わり合いを軸にしたストーリーだが、芝居一座というモチーフは、歌とダンスによるパフォーマンスを随所に織り込むことができるため、グループアイドルが上演するミュージカルにとってやはり相性が良い。一大イベントである「たぬき祭り」を目前に控えたという劇中の設定が、第二部のショーに接続されるようなトータルの構成を含めて、この公演形式はグループアイドルが今後、これまで以上に開拓してよいジャンルなのではないかと思わせた。演劇そのものには、おそらくは時間的な制約を含めたもろもろの難しさがあることもうかがわせたが、スーパー歌舞伎にも携わり、こうした劇場の扱いを熟知した作・演出の横内謙介の手際と、若いメンバーが多いHKT48の中で、指原や多田愛佳といったキャリアのあるメンバーの落ち着いたパフォーマンスが下支えしていた。

 第二部のショーは、普段のライブのみのセットリストでは実現しにくい、多少の軽みと自由度のある構成が功を奏していた。生歌で進行するセットリストの幕を開けるのは、指原ソロによる「川の流れのように」である。AKB48グループ総合プロデューサーの秋元康の、作詞家としての若き日のマスターピースである以上に、日本の芸能史にあって重い意味を持つ同曲を担うのは相応の怖さもあったはずだが、それを軽やかにこなすことができたのは、今回の上演スタイルゆえでもあるだろう。ところどころに見える生歌の粗さも、二部構成のお祭りパートである「たぬき祭り」の世界観と溶け合って楽しさに転換できるのは利点である。AKB48やHKT48の新旧のシングル曲に、「君の名は希望」や「あなたがいてくれたから」といったチョイスを織り交ぜ、指原が先導するHKT48の現在の勢いを表現していた。そして、HKT48メンバー以外のキャストも含めた全員がパフォーマンスに参加するこのショーにとって、「会いたかった」「恋するフォーチュンクッキー」といった超有名曲を持っていることはなにより強い。特に「恋するフォーチュンクッキー」は近年の日本の曲のうちでも、稀有なレベルで社会に浸透した作品である。その曲のセンターである指原を、この明治座公演全体のセンターに戴くという図式は、公演が身内だけのものに終わらない、外向きの可能性を拓くうえでも重要なことだ。グループの代表曲が現役の作品として上演され続けることは、こうした意味でも大きい。

 忘れてはならないのは、この公演が「指原莉乃座長公演」と銘打たれていることだ。指原自身はメディアで、芝居が苦手であること、座長の任を果たせるレベルにないことを繰り返し述べていたが、この公演で彼女が見せた堂々とした振る舞いはまさに一座の中心にふさわしいものだった。もちろん、たとえば堂本光一や滝沢秀明らが座長を務めるジャニーズの舞台のような伝統や周到な準備はまだ今公演には見られないし、それらの舞台で堂本や滝沢が行なっているようなプロジェクト全体へのコミットはできる環境ではないのだろう。しかし、48グループ全体を見渡しても、公演の顔として指原のように立ち回れるメンバーはさほどいるわけではない。彼女のタレント性の豊かさ、一見して誰が率いているのかがはっきりわかるライブパフォーマンスでの輝きは、この明治座公演を成功させる最重要のピースである。48グループにとっては新たな武器を持つための種になるものであり、また商業演劇の劇場にとっては定番スタイルの継承でもあるこの公演形式を単発で終わらせてしまうのはやはり惜しい。さらに余裕を持った準備をもって発展継続していくことで、48グループが実現できるエンターテインメントの幅もまた広がるはずだ。そうした未来のプロセスにとって、指原莉乃という存在が引き続き最も信頼できるプレイヤーの一人であることは間違いない。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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