東大准教授の美学者が語る、ももクロの魅力(第3回)

ももクロとは笑いであり、戦いである――美学者が指摘するその多面的構造

『ももクロの美学~〈わけのわからなさ〉の秘密~』(廣済堂新書)を上梓した東京大学大学院准教授で美学研究者の安西信一氏に、美学的な視点から見たももいろクローバーZの魅力を聞く集中連載第3回目。

第1回目:「ももクロ現象こそ、アート本来の姿」東京大学准教授が美学の視点から大胆分析
第2回目:ライブはまさに偶像崇拝 ももクロはいかにして「宗教」となったか

――今までのお話を聞いて、ワーグナーの総合芸術が想起されました。

 前山田さんも「アイドルは総合芸術だ」と言っていますし、想起させる要素は十分に揃っていると思います。ただ、ワーグナーが作りたかったものは、音楽だけではなく、全ての要素を含み込んでひとつに統一された総合的な芸術です。ももクロの場合は、必ずしもそうではありません。開かれた構造にし、異質なものをぶつけているところがおもしろい。つまり、ワーグナーのように、有機的に均一に統合されたものではないのです。一言で言えば、「コントロールされたものではない」。観客の盛り上がりはワーグナーを想起させるかもしれませんが、内実のあり方はぜんぜん違っている。また、笑いやパロディ、反省性、引用の要素も強いので、ワーグナー的な閉じた芸術とは異なると思います。

――笑いが入ると、たしかに外部性が出てきますね。

 ももクロは、「自分たちを笑う」というメタアイドル的な視点があります。よく、「学生運動のようなものが崩壊して、大きな物語がなくなると、全体がパロディになっていくしかない」と言われますよね。なおかつ、末期資本主義に入ってきて、シミュラークル的なものが溢れかえり、笑いをとるだけのコミュニケーションが蔓延していく――そうした大きな流れに繋がっていると思います。

 ただ、笑いでもある一方で、戦いでもあるんです。他者に勝つためのものはなく、自分自身に負けないための戦い。それは限りのない行為です。いつも笑っている彼女たちも、裏では苦しみを抱えたりプレッシャーを感じたりしていると思いますが、鬱屈さやトラウマ性みたいなものはありません。全力で大変なパフォーマンスを戦い、ときに涙しながら、結局ニコニコ笑い、かと思えばそんな自分を茶化すときもある。そうした二面性が、ももクロのおもしろさのひとつだと思います。これは前回で述べた、日常系/セカイ系の話に通じますね。そして両者のあいだを大きく行き来しながら、ドラマチックな成長の物語をつむいでゆく。

関連記事