町田康が証言する80年代ロックの勃興期:関西パンクの熱気とINU『メシ喰うな!』誕生秘話
80年代の邦楽ロックカルチャーについて、当時のメディアを手がけたキーマンや、その時期に青春をすごしたミュージシャンたちのインタビュー証言を中心に、各シーンに詳しい音楽ライターから寄稿されたレビューも収録したムック本『私たちが熱狂した 80年代ジャパニーズロック』が、12月14日に辰巳出版より発刊される。
インタビュー企画には、仲井戸麗市(RCサクセション)、町田康やケラリーノ・サンドロヴィッチ、梶原徹也(ex.ザ・ブルーハーツ)、寺田恵子(SHOW-YA) 、杏子といったミュージシャンのほか、田口トモロヲ、角田光代などの文化人、さらには森川欣信(オフィス オーガスタ代表取締役)、道下善之(ソニー・ミュージックアーティスツ)などの音楽業界関係者が登場。同書の編集を担当したのは、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintで、小野島大や中込智子、兵庫慎司、市川哲史、ふくりゅう、冬将軍といった同時代に詳しい評論家・ライター各氏も寄稿している。
リアルサウンドでは同書の発売に先駆け、2回にわたって掲載記事の一部を紹介。今回は現在小説家・詩人として確固たる地位を築き、80年代は町田町蔵の名で日本のロック界の寵児的存在だった町田康のインタビューを掲載。「INU」で世に出た町田は、出身地である大阪でどのようにパンクと出会い、そして邦楽パンクの名盤と評価されるアルバム『メシ 喰うな!』を作り上げたのか。日本のインディーズ・ロック・シーンに詳しい音楽ライターの中込智子氏が迫った。
「黄金かどうかは分かりませんが、まあ、いろんなバンドがいましたね(笑)」
――まず、バンドをやり始めることになったきっかけから教えていただけますか。
町田康(以下、町田):77年とか78年とかそれぐらいだったかな、当時イギリスやアメリカのパンク・バンドが日本でも紹介され始めて、そういうのに影響を受けまして。それまでのロックというのは演奏も結構難しそうだったんですけど、イギリスのパンクなんてのは非常にシンプルで、自分らでもできそうだなあ、やってしまえ、という感じになってですね。
――世代的にそれ以前のロックといいますと、KISSであるとか。
町田:ええ、そうですねえ。 KISSとかエアロスミスとか、クイーンとか、そういうのが人気がありました。僕はそんなに熱心には聴かなかったですけど、聴いてる方は多かったと思います。
――そうした中、セックス・ピストルズやダムド、クラッシュが登場し、いち早くその存在を知る。
町田:ええ、そうです。
――関西は、情報が早いというか、新しい潮流に対してのアンテナが非常に立っている印象があるのですが。
町田:えーと、『ロックマガジン』という雑誌を主宰していた 阿木譲さんという評論家の方がいて、その方が地方ローカルの番組で、映像と共に海外の新しいバンドを紹介したりしていたので、割と早かったんだと思います。他にも、いろんなチャンネルの情報がありましたしね。でまあ、そういうのを知って、自分たちでもやってみようかという話になり、いろんな仲間と出会い、いろんな関係性の中でライヴハウスを紹介してもらったりとか、学園祭、大学のイベントとかに出たりとか。
――それは町田さんがまだ高校生の頃のお話ですよね?
町田:そうですね。僕はその当時、最年少の部類でしたから。 やり出して、知り合ったのが年上の人が多かったので、そういうところに呼んでもらったりしてたんです。よくわからないんですけど、ネットワークとかがあって……まあ、今と違って当然インターネットとかもありませんから、コピーのチラシのメンバー募集とか、そういうので知り合ったりしていました。チラシには電話番号が書いてありますから、そこに電話して、「1回会いませんか?」みたいな話をしてすぐ会って、気が合いそうなら「一緒にやりませんか?」という、そんなような時代でしたね。
――非常にダイレクトな分、話も早かった。ちなみに当時ライヴハウスでは、どんなところで、どんな風にやられていたのですか。
町田:いちばん最初は、大阪のバハマか京都のサーカス & サーカスのどっちかだったと思います。もちろん対バン形式ですね。当時よく一緒にやったのは……後にドッキリ・レコードというオムニバスに参加するんですけど、そこに一緒に入っているバンド。 ALCOHOL42%とか、元々SSっていうバンドをやっていたCHINESE CLUB 、あとウルトラ・ビデとか変身キリン。あとは、そのレコードには入っていないんですが、アーント・サリー。ちょっと上ですけど、キース・エマーソン的なキーボードを演奏していた、隣さんという方がやってらした、だててんりゅう。あと京都だと、ZIGZAGとか。まあ挙げればキリがないんですけど、いろんなバンドと一緒にやりましたね。17、18、19歳ぐらいの頃ですね。
――今挙げられたバンドの多くは、80年代初頭に宝島から年1ペースで出ていた『ロックファイル』という別冊雑誌で、私は名前を知りました。INUはもちろんですが、いずれも当時の日本のアンダーグラウンド・シーンを象徴する個性的なバンドであり、つくづく黄金期だったのだなあと実感します。
町田:黄金かどうかは分かりませんが、まあ、いろんなバンドがいましたね(笑) 。
――で、そうした活動を経てINUはメジャー・デビューされるわけですが、これはどういった経緯があったのでしょう。
町田:INUはですね――その頃、新宿の映画館で京王地下っていうところがあって、そこでノイズ系のイベントがあったんですね。で、ウルトラ・ビデのビデくんがそういうノイズっぽいのが、アバンギャルドな現代音楽っぽいのが好きで、テープを作ってそれに合わせてノイズっぽく演奏するっていうことをやってまして、そのバンドというかバンドとしてやっていたわけではないんですけど、とにかくそのバンドの臨時のヴォーカルというかボイスとして「ちょっと来てくれへんか?」ということで、その京王地下でやったんですね。オールナイトで、そういうノイズっぽいバンドがいっぱい出てました。で、そこに鳥井賀句さんという評論家の方が来てらして、きみたちなかなか面白いねという話になって。で、その方が当時ブラックプールというロックバーみたいなのを高円寺でやってて、そこに行くようになり。そうこうする内に「レコード会社を何社か紹介しようか?」と。 「知り合いのディレクターに聞いてみるよ」ということで、まあ何社か話があってデモテープを録ったりしたんですけど、その中で当時ジャパン・レコードというところが「やりましょう」ということになったんですね。
――それが81年発表のアルバム『メシ喰うな!』。34年に亘って延々とプレスされ続けているパンクの名盤中の名盤です。しかも、この当時はパンクを始めとしたアンダーグラウンドのバンドがデビューするのは、まだまだ非常に珍しいことでした。
町田:ただこの当時、アナーキーが結構売れたので、こういうのも行けるかな、というのがレコード会社に多分あったのかもしれないなと思うんですよ。
――ああ、なるほど!
町田:それに東京の方でも、リザードやフリクションといった何グループかはメジャーからLP出してましたから、なんとなく、こういうのもやってみようというのはあったんじゃないですかね。まあ、今考えるとですけど。あの当時はよく分かってなかったですけどね(笑)。それが1980年代の前半というか、まあ始め頃ですね。