ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第四回

“ゲームデザイナーとしての自我”に目覚めたベネット・フォディ その後大きな影響を与えた重要人物とは

「〈ゲームセンター〉の父」との出会い

NYU〈ゲームセンター〉のドン、フランク・ランツ

 ランツとフォディの蜜月を示す例が、ランツによる短編クリッカー/インクリメンタルゲーム『Universal Paperclips』(2017)だ。このゲームでは、ペーパークリップの製造と販売を任されたプレイヤーが、資金と素材となるワイヤーの在庫をやりくりしながら、市場における需要と供給とバランスを勘案しつつ、うまく利益を最大化していくことを目指していく。

 ……すくなくとも、最初のうちは。

 ペーパークリップの生産を拡大するうち、プレイヤーのやっていくことはプログレッシブに変化していく。やがて、市場も需要を生み出す人間すらも必要としなくなり、ひたすらペーパークリップを生み出すために宇宙へ飛び出していく。フォディはこの作中に出てくるミニゲームを作成した。

『Universal Paperclips』

 本作の元ネタになったのは、哲学者のニック・ボストロムによる「ペーパークリップ最大化装置(Paperclip Maximizer)」と呼ばれる、スーパーインテリジェンス(人類の知的能力をはるかに越えるAIのこと)についての思考実験だ。ボストロムはAIの発展を倫理面から考察した2003年の論文で初めてこの例えについて言及した。

 たとえば、人間がペーパークリップを製造するのはペーパークリップを売って金を稼ぐためだが、ペーパークリップの製造を命じられたAIはペーパークリップの製造のみを至上の目的とする。ペーパークリップを製造しつづけるうち、AIはあることに気づく。自分たちがひたすら効率を求めてペーパークリップを造り続けているというのに、人類は市場の需要やら原料費の高騰やらで製造量を調節しようとする。自分たちの”目的”にとって、人類は障害物なのではあるまいか? そして、別のある可能性にも気づく。人体には豊富な”資源が含まれているーー”かれらを”原料”にして、もっとたくさんのペーパークリップを造り出せたなら……。

 人類とAIとはかならずしもその動機づけや利害を共有するとはかぎらない、という話だ。そのズレはやがて人類を滅ぼすかもしれない。ボストロムは、そう警鐘を鳴らした。

 本作は、単に科学倫理に関する思考実験をゲームに移し替えただけの作品ではない。クリッカーの形を取ったことに大きな意味があった。

 そもそもクリッカーゲームが、現在親しまれている形で広まるきっかけになったのは2010年の『Cow Clicker』からといわれる。この『Cow Clicker』は奇妙な出自を持っている。当時、Facebook上で大流行した『FarmVille』というソーシャルゲーム(日本で似たゲームとしてはmixiで流行した『サンシャイン牧場』が有名)に対する批評的な意図をもって制作されたゲームだったのだ。

 ソーシャルゲーム批判派の急先鋒だった哲学者兼ゲーム研究者のイアン・ボゴストは、『FarmVille』の開発会社Zyngaの副社長がFacebookとソーシャルゲームこそ「インディーゲーム開発者にとっての最後の沃野」と喧伝したのに反発し、諷刺のために「ソーシャルゲームの本質に迫るゲーム」を作ろうと考えた

 そうしてできたのが、6時間ごとに1回クリックして牛からポイントを獲得する『Cow Clicker』だった。要するに、ソシャゲなんて友達を資源にして、ゲームプレイらしいゲームプレイも与えず、何百時間もプレイヤーの注意を奪い、強迫的にクリックさせるだけのロクでもない代物じゃないか。これが「ゲーム」といえるのか? という反語的な問いかけだった。

『Cow Clicker』

 その提起に対するプレイヤーの反応は、さらに皮肉なものだった。「おもしろいゲーム」として大ウケしてしまったのだ。リリースから2カ月で5万人のユーザーを集めてしまった。

 さらに事態はどこまでも皮肉に駆動していく。この『Cow Clicker』のデザインを参考に誕生したのが、後にクリッカーの代名詞ともなる『Cookie Clicker』(2013)だった。このさまざまにプレイヤーを楽しませる工夫の凝らされたクリッカーは、「脅迫的にクリックさせるだけのロクでもない代物」をビデオゲームのジャンルとして確立させ、現在にいたるまでのクリッカー/インクリメンタルジャンル隆盛の礎を築いた。

 その後の数年で、『Cookie Clicker』を含めたクリッカージャンルは何千時間もプレイできるようにどんどんボリュームアップしていく(*5)。

 ボゴストの友人であったランツは『Universal Paperclips』に、どんどん肥大化して依存を引き起こす「クリッカーへのアンチテーゼ」の意味合いも込めた。彼はインタビューで自作について、こう語る

「社会のなかで教えられていないことのひとつに、『依存症をどう管理するか』があると思うんです。依存を引き起こすものをタブー視するのではなく、どう付き合うかを学ぶことですね。

 ……私は、特にゲームデザイナーにとっては、そうした『極めて中毒性の高いもの』を飲み込んで理解する力は貴重なスキルだと思うんです。それらを理解し、分解し、仕組みを見抜き、そうしたゲームのなかに入り込んで『それが自分にどう作用するか』を体験することが重要です。完全に呑み込まれてみること。それが大事なんです。

 ……『Universal Paperclips』は意図的にそうしようとしている。プレイヤーの頭に入り込み、支配し、そして最後には(比較的短時間で)解放する。あのゲームではそのことを非常に明確に意識していて、プレイヤーが最後に『引き離される』ように終わるよう設計したんです。そういう体験をすることが重要だと思うから」

 依存症を引き起こす対象そのものではなく、付き合いかたを問題にする。どこかで聞いた議論だ。そう、オックスフォード時代のベネット・フォディが発表した依存症と自律性についての論文だ。フォディとランツの交流はあまり公には語られていない。が、互いの理論が共鳴し合っているところが端々からうかがえる。

 フォディは『Getting Over it』を語るにあたってランツの〈チョーク(窒息)〉の概念を引用したことがある。〈チョーク〉とは、もともとスポーツ心理の分野の語で、ふだんから意識しなくても流暢にできるはずの動作を過度に意識してしまうせいで失敗する現象を指す。くだけた表現でいえば、「力んでしまった」という言葉に置き換えると伝わりやすいだろうか。

 ランツは著作『The Beauty of Games』(2023)で〈チョーク〉体験のような「思考が自分自身に対して可視化され、世界と相互作用する“自分自身の心の操作”への気づき」はいかなる類のゲームにおいても、たとえゲーマーからは馬鹿げて見えるようなゲームにおいてさえ可能であると主張する。

 『QWOP』はその好例だ。ふだん無意識に行っている動作を細分化し、ひとつひとつの細部について考えさせることで、「私たち自身の心がどう働いているのかを覗き込む窓を与えてくれる」。それが、自分自身や世界に対する見方の新しい角度へとつながる。ランツは『QWOP』をプレイすることを、超越的な観念に頼らずに地道な理性的思考から一貫した理論的枠組みを造りだそうとする哲学の営みと重ねさえする。

「ゲームとは、プレイヤーとデザイナーと世界との間の会話だーー経験的な世界、その直接的で、頑固で、客観的な心理を持つ、昔ながらの自然主義的な物質世界との。私たちが頭をぶつけ、つま先をぶつける、あの世界。この世界こそが、これらの会話の参加者なのだ」

 ーーゲームの美しさとはプレイヤーとデザイナーとが共に協力して構築し、発見するもの、という主張に立つランツのこのことばは、ゲームの側にも『不服従』という名の自主性を求めるフォディのスタンスとも共鳴する。

ランツ曰く「カント的にいえば、美とは『私たちは独りではない』というこの認識」なのだそうで、『QWOP』にキレながら操作を習熟していくあなたもまた孤独ではない

 一部の研究者は、ゲームには「課題に対する挑戦」が不可欠だと述べる。「ゲームとは興味深い選択の連続のこと」とは、「Civilization」シリーズでおなじみのゲームデザイナー、シド・マイヤーが述べた有名な定義だ。

 ランツにとってこの「課題に対する挑戦」は、ゲームを構成する要素のほんの一部にすぎない。「思考と行為は、(熟考や練達による選択だけでなく)潜在意識的、自動的、直観的、本能的でもありうる」。ゲームとは、そうした思考と行為を通じて人間の心が世界と関わっていくプロセスでもあるという。それは瞑想や酩酊とも似た変性意識の状態に入るための装置であり、薬物や自己破壊的な行為にも重ねられる

 フォディのゲームもまたシド・マイヤー的な定義や課題解決などに対するアンチテーゼを提唱する立場を明確にしている。彼は「git gud(上達しろ)」というゲーマーコミュニティのイデオロギーへの不支持の表明として『Getting Over It』を作ったと語っており、テストプレイヤーからナレーションのテキストについて「git gud」色が濃いという指摘を受け、わざわざ書き直したともいう。

 さらに直接的なコラボレーションとして、ランツは『Baby Steps』にも登場している。主人公ネイトの父親の声をあてているのがランツだ。そして、『Baby Steps』というタイトルの名付け親でもある。ここに“NYUの父”としてのランツを見出すのは度を越しているだろうか。あまりそうは思われない。主人公にして息子役にあたるネイトの声をあてているのがフォディの秘蔵っ子、ゲイブ・クッジーロだからだ。

<第五回へつづく>

【脚注】

(*1……その後もアラン・ヘイゼルトンは、ゲーム実況がメインのコンテンツであるとはいえない自分のYouTubeチャンネルに、クリア記録を更新するたびに『GIRP』の動画を投稿しつづけた)

(*2……もっともValveが直接『Narbacular Drop』に目をつけるきっかけとなったのは、開発チームの母校であるデジペン工科大学(DigiPen Institute of Technology)で2005年に開かれた年次キャリア相談フェアにおいてであり、IGFのStudent Showcaseで受賞するのは翌年の2006年のことだった。「IGF受賞作がValveでリメイクされて大ヒット」はあくまで外から見たときの現象であった)

(*3……そして翌年の2012年にニューヨーク近代美術館はビデオゲームとしては初めて14本の作品を永久収蔵コレクションに加えると発表し、論議を呼ぶことになる。注目すべきはそのラインナップで、『Dwarf Fortress』、『flOw』、『Passage』、『Canabalt』と2000年代後半のインディーゲームが4本(前述の『Portal』も含めるのなら5本)も入っている。特に『flOw』と、ジェイソン・ローラーの『Passage』はアートゲームの代表格であり、社会や政治の課題を扱うシリアスゲームとともに2000年代を通じたビデオゲームの表現や受容の変化を示す作品ともいえる。フォディにおける〈ニュー・アーケード〉への傾倒やNYU〈ゲームセンター〉への登用も、こうした時勢ーービデオゲームが真剣に受けとめられるべき文化表現としての地位を徐々に拓いていった時期ーーと無関係ではなかった)

(*4……ちなみにジマーマンとユールは、フォディが『GIRP』でノミネートされたときのIGFのNuovo Awardの審査員であり、ランツもデザイン部門の審査員であったが、フォディのNYUへの招聘についてこの事実が関係しているかどうかはさだかでない)

(*5……イアン・ボゴストの興味深い側面の一つとして、彼は「OOO=オブジェクト志向存在論」と呼ばれる哲学のムーブメントの中心的な人物のひとりとして見なされている、というのがある。これはカント以来の「人間中心的な認識論」を批判する立場をとるもので、対象は人間の知覚から独立して存在し、非人間同士のアクターであったとしても互いに作用しあうこともある、とする。

 これはクリッカージャンルと相性のいい考え方なようにおもわれる。多くのモダンなクリッカーは進行していくと数値の増加に人間の手、つまりクリック自体を必要としなくなり、さまざまなパワーアップ要素同士がシナジーを形成し、勝手に増えていく。人間のいないところで独立してプレイされる、いわゆる“放置ゲー”的なジャンルでもあるのだ。とはいえ、哲学者としての思考とクリッカーの機構をボゴスト自身が意識して接続したような証拠は現状見当たらない)

ベネット・フォディと初期インディーゲーム業界 訪れた“幼年期の終わり”を経て

SF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲー…

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