ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第三回
ベネット・フォディと初期インディーゲーム業界 訪れた“幼年期の終わり”を経て
インディーゲームの金字塔として知られる、“壺おじ”こと『Getting Over it With Bennett Foddy』をご存知だろうか。数々のゲーム配信者、VTuberがプレイし、「ゲーム実況の登竜門」として評価を受ける、インディーゲーム屈指の名作だ。
同作のタイトルには作者であるベネット・フォディ(Bennett Foddy)の名前が記されている。ゲーム実況を見るのが好きな人、VTuberを好きな人、あるいは『Steam』でゲームを遊んだことのある人なら、「なんとなく知っている」「聞いたことはある」であろう“壺おじ”だが、その作者の人となりについては、意外と知らない人が多いのではないだろうか。
そこで今回、リアルサウンドテックではSF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史」を、全七回にわたってお届けする。大流行するインディーゲームの現在の起源と、重要な役割を果たしたフォディの足跡を知る手がかりとなれば幸いだ。
前回までは、フォディのゲーム開発者としての目覚めに焦点を絞ってコラムをお届けしてきた。今回はいちど、当時のインディーゲーム業界について整理していこう。
TIGS的なインディー史(観)
ゲーム開発者としての姿を意識し始めたフォディ。彼のその後を語る前に、2008年から2012年にかけての小規模開発インディーゲームにおける時代背景を説明せねばなるまい。というのも、この4年ほどの期間はそれまでの牧歌的だったTIGSとその周辺のインディー界隈が大規模な地殻変動を経験していった時期だからだ。
『World of Goo』、『Braid』、 『Castle Crashers』、『Geometry Wars: Retro Evolved 2』、『Super Meat Boy』、『Limbo』、『Fez』『Minecraft』、『The Binding of Isaac』、『Hotline Miami』、『Terrarria』、『FTL: Faster Than Light』、『Thomas Was Alone』、『To the Moon』、『Dear Esther』……現在でも記憶され、売れ続け、ジャンルや美学のオリジネイターとされる作品がこの5年のあいだに陸続と押し寄せた。
『QWOP』リリースの翌月、TIGSの主筆でありフォディの(あるいはコミュニティの誰にとっても)良き助言者であり擁護者であったデレク・ユウが『Spelunky』というタイトルのゲームをリリースする。
『Spelunky』は当初フリーウェアとして配信されていたが、『Braid』のジョナサン・ブロウなどからコンソール移植を熱心に勧められ、12年に「Xbox Live Arcade(XBLA)」から有料のリメイクバージョンが出る(※1)。これはその年のゲーム界を席巻して数々の賞を受賞し、現在でもオールタイムベストリストに頻繁に名の挙がる名作となった。
というわけで、後に彼自身インディーシーンのど真ん中「XBLA」で成功することになるTIGS主筆のユウ(※2)だったが、そんな彼が2010年にインディー界に関し、「Fracturing(分裂)」と題して、TIGSフォーラムに自らのインディー史観とそれに基づくTIGSコミュニティの運営思想の変遷を披露している。
彼によれば、インディーゲームの歴史は80年代から始まって2010年に至るまで「6つの時期」に大別されるという。
第一の期間は、80年代から90年代初頭にかけての「インディー以前の個人開発」。パジトノフ(『テトリス』)、クラウザー(『Colossal Cave Adventure』)、ロメロ&カーマック(『DOOM』)といった“ベッドルーム・コーダー(※3)”たちの時代を指す。もっとも、インディーが対置されるべきメインストリームすら存在しない時代ともいえた。
第二の期間は90年代。「ZZT」、「Klik&Play」、「GameMaker」といった無料の、ないしは安価なゲーム製作ツールが登場し、趣味としてのゲーム開発がぐっと身近になった時期だ。ツールの登場にともない、インディー開発者のコミュニティも形成されていく。補足するならば、ユウ自身はKlikのコミュニティの出身であり、そこでのもろもろの限界に直面していた時期にマグナソンのTIGSourceに出会い、インディーの本格的な可能性に目覚めている。ちなみに日本でいえば、ちょうど『RPGツクール』コミュニティが盛り上がり、エンターブレインによるアマチュアゲームコンペ〈コンテストパーク〉がネットへ移行しはじめた時期と重なる。
第三の期間は2000年代初頭。(主にマクロメディア[のちにアドビ]が提供するFlashとShockwaveの隆盛によって)カジュアルゲームが大きな存在感を発揮するようになり、それがインディー文化と結びつく。ユウ自身も2004年ごろに「インディーゲーム」という単語を初めて耳にしたという。
第四の期間は2000年代中盤。2005年にユウがTIGSを創設者のジョーダン・マグナソンから運営を引き継いだ時期でもある。大学を出たばかりのユウにとって、カジュアルゲーム業界が粗製濫造のクローン作品ばかりで、メインストリームの大作のほうもあまり深く考えて作られていないように見える点で大差なかった。このあたりは「2005〜2008年のAAAタイトルは砂色っぽいミリタリーシューターばかりだった」と語っていたフォディの感覚と共有されるところだろう。
そもそも、創設者マグナソンからしてTIGSの設立意図は「当時のインディー開発コミュニティに氾濫していた(カジュアルゲームやインディーヒットの先駆けとされることの多い『Bejewelled』のような)3マッチパズル(※4)の“志の低いクローン”にうんざりして」のものだったという。ユウはそうしたゲームたちの対極にTIGSを置き、コミュニティから出てきた実験的なゲームを称揚する場にしようと決めた。
そして第五の期間は2000年代終盤。インディーゲームの認知度が高まるにつれて、開発者も増加し、その目指す方向も多様化した。それにともないTIGSのコミュニティも拡大。ユウの初期の思想はこの時点で早々に「失効した」と述べている。彼は運営の方向性を偏らせようとするのをやめ、TIGSについても流れに任せようと考えた。
またユウは2010年時点でインディーはすでに実験の場としての役割を果たし終えたとし、より高いクオリティで深い体験をプレイヤーに与えるゲームを期待するようになった、とも語っている。これは、メインストリームとの和解ともいえる。ユウ自身を含めたTIGS出身のインディー開発者たちが市場のメインストリームへと進出しつつあったころなのだから、ごく自然な態度でもある。
そして、第六の時期。第五の時期に成功を遂げたユウら旧世代のインディー作者に対して反発する“ニューウェーブ”たちが出現した。かれらは「Independent Game Festival(IGF)」やTIGSフォーラムといった既存のインディー開発者コミュニティに背を向け、「Xbox Live Arcade」や「PlayStation Network(PSN)」といったインディー開発者にも門戸を開きつつあるプラットフォームに中指を立てる。そして、ピクセルアート、実験的な短編、フリーウェアを称揚する。かれらは明確な集団をなしておらず、ハブとなる根拠地も持たないが、将来的にそうなる可能性はある……。
さて、ここまで紹介した「インディーゲーム史」は、あくまでもユウの肌感覚中心に組み立てられた、単線的な歴史観と未来予測である。実際、TIGSフォーラムでもこの見解に対してメンバーたちから異論反論が相次いだ。
とはいえ、ユウの認識は“TIGS世代”の自意識を一定程度反映している。
かつて自分たちはオルタナティブであった。だが今は主流派になりつつある。実際、一部のインディー開発者たちは大金と名声を手にしたか、手にしかけていた。現状への不満とそれを打破するためのノスタルジーで駆動していたかつての若者たちは、成熟しつつあったのだ。
ことあるごとに『ZX Spectrum』や80年代のゲームへの執着を示し、大手の大作に不満を表明していたフォディも、「旧世代のインディー」に属する立場といっていいだろう。では、ユウやフォディのようなインディーゲーム開発者の初期世代はTIGSフォーラムのようなコミュニティにおいてどのようなつながりを持ち、「インディー」のイメージを形成していったのだろうか。この時期のフォディのネットでの活動と交友から見ていこう。