『Red Dead Redemption 2』とディアンジェロ「Unshaken」考:ゲームが描いた「悪魔のパイ」と「贖罪」を巡る世界
2025年の終わりを間近に控え、この一年を振り返ると、今年も多くの才能がこの世から去っていったということに想いを馳せてしまう。本稿で取り扱う、アメリカ出身のミュージシャン、D'Angelo(ディアンジェロ)もその一人だ。
1974年にバージニア州リッチモンドの南部で生まれたディアンジェロは、1995年のデビュー・アルバム『Brown Sugar』をきっかけに多くの人々を瞬く間に魅了し、2000年の『Voodoo』、2014年の『Black Messiah』を含めた圧倒的かつユニークな作品の完成度の高さによって、ブラックミュージックのみならず、現代の音楽シーン全体に絶大な影響を与えたアーティストとして知られている。
2025年10月14日、膵臓がんとの闘病の末に、ディアンジェロは逝去した。51歳という早すぎる死に多くの人々が悲しみ、追悼の言葉を送った。その中には、ビヨンセやタイラー・ザ・クリエイター、フリー(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)といった、現代のシーンの第一線で活躍するアーティストも数多く見受けられた。かのローリン・ヒルは、「あなたの否定しようのない美しさと才能は、この世のものではなかった」と綴っている。
一方で、redditやXといったSNSプラットフォームでは、一見すると音楽シーンから遠い位置にいるように感じるかもしれないゲーム会社や多くのゲーマーたちが、同じくディアンジェロに対して追悼の言葉を寄せていた。
その理由は、ある一本のゲームソフトにある。2018年にRockstar Gamesから発売された『Red Dead Redemption 2』だ。実は、この作品の劇中歌として、当時、ディアンジェロが本作のために書き下ろした楽曲「Unshaken」が起用されているのである。
(本稿では、核心的な部分のネタバレは避けるが、『Red Dead Redemption』と『Red Dead Redemption 2』の物語の展開に触れている。未プレイの方は注意していただきたい)
『RDR』を愛したディアンジェロが即断した、「ゲームへの楽曲提供」のオファー
タイトルにある通り、『Red Dead Redemption 2』は、2010年に発売された『Red Dead Redemption』(略称:RDR /つい先日、Nintendo Switch 2を含む現世代機版アップグレードが配信された)の続編である。Rockstar Gamesといえば「Grand Theft Auto」(グランド・セフト・オート)シリーズの開発元として知られているが、現代を描く「GTA」に対して、西部開拓時代が終わりを迎え、文明の時代へと移りゆく20世紀初頭のアメリカを舞台としているのが「RDR」の特徴だ。どちらも広大かつ細部まで作り込まれたオープンワールドと、善悪問わず好き放題できる自由度の高さで知られているが、「GTA」が活況を極める一方で、「RDR」も根強いファンを多く抱えている。
ディアンジェロもまた、『RDR』の大ファンだったという。その熱量たるや、匿名の人物を通して、続編のプレイテストへの参加を切望するほどだったというから驚きだ。Rockstar Gamesがこの申し出を受け入れると、彼はたびたび深夜のオフィスに現れ、朝になるまで没頭して遊び続け、いつも大きな感銘を受けていたそうだ(開発者いわく「ここまで誰かが興奮しているのは見たことない」)。この出来事がきっかけとなり、Rockstar Gamesは、ディアンジェロに同作への楽曲提供を打診することにした(※1)。
アルバムのリリースペースからも分かる通り、ディアンジェロは寡作なミュージシャンとして知られている。ゲームがリリースされた2018年当時は、約14年ぶりとなる3rdアルバム『Black Messiah』のリリースから4年しか経っておらず、同作のツアーも一段落し、再び沈黙の時期を迎えていた時期に相当する。ただでさえハードルの高い楽曲提供、それもゲームのサウンドトラックとなると、これがダメ元での依頼だったことは想像に難くない。仮に実現したとしても、制作が長引き、収録を断念することになる可能性もあっただろう。だが、そのオファーは実現し、「Unshaken」が完成に至るまで、僅か1週間ほどしかかからなかった。
楽曲の制作には、ディアンジェロに加えて、ゲームのサウンドトラック全体のプロデューサーであるダニエル・ラノワも参加した(余談だが、同作にはNas、Arca、ジョシュ・オムといった著名なアーティストが参加しており、中でもブラック・ミュージックとしてのカントリーの再定義を掲げた2024年のビヨンセ『COWBOY CARTER』よりも6年早く、カントリー/ブルースを中心とした作品にウィリー・ネルソンとリアノン・ギデンズの両名が起用されているのは注目に値する。また、ダニエル自身もU2『The Joshua Tree』などに携わったレジェンドだ)。
制作において、当初はディアンジェロ主導のもとにロックサウンドに取り組んでいたが上手くいかず、ダニエルは自身が隠し持っていた、ブライアン・ブレイドとシリル・ネヴィルによるニューオーリンズのグルーヴで満ちたパーカッションのトラックを持ち出した。これを気に入ったディアンジェロを含む制作チームは、彼自身が奏でるフェンダー・ローズの美しい音色や、コーラスを巧みに重ね、「Unshaken」を完成へと導いたという。楽曲が完成した際、ダニエルは「これまでのキャリアにおける最高の作品だと思う」と開発者に語ったそうだ(※2)。
結果として最後のアルバムとなってしまった2014年の『Black Messiah』以降にディアンジェロが残した音源は、「I Want You Forever」(2024年、ジェイ・Zとの連名で映画『ブック・オブ・クラレンス 嘘つき救世主のキセキ』のために書き下ろし)、「Ibtihaj」(2019年、ラッパーのRapsodyのフィーチャリングとして参加)、「Unshaken」の3曲のみである。その事実からも、いかにディアンジェロが『RDR 2』を気に入ったのかが分かる。
そして、「Unshaken」がゲームの中で流れる場面は、間違いなく『RDR2』全体において感情を最も突き動かす瞬間の一つであり、作品の評価を決定的なものにすることになった。
なぜ、ディアンジェロは『RDR』を愛したのか
前述の通り、このコラボレーションが実現した理由は、何よりもディアンジェロ自身が『RDR』の大ファンだったからに他ならない。だが一体、このゲームの何が彼をそこまで惹きつけたのだろうか?
先に書いておくと、(筆者が調べた限り)ディアンジェロ自身がゲームについて語った記録はなく、あくまで両方のファンとしての推測を並べるしかないのが実情だ。『RDR』と言えば、美しいオープンワールドの荒野を馬に乗ってどこまでも走っていく、風通しの良い感覚そのものが大きな魅力である。西部劇のフィーリングをそのまま再現したかのような、クールなガンアクションも素晴らしい出来栄えだ。それらに加え、『RDR』が描いた物語と、その主人公であるジョン・マーストンという人物に対して、ディアンジェロは強い魅力を感じていたのではないだろうか。
『RDR』では、若い頃にダッチ・ファン・デル・リンデ率いるギャングの一員だったジョン(ゲーム開始時点で38歳)が、連邦保安官に自身の妻と子どもを人質に取られ、家族を救うために、かつての上司や同僚でもあるギャングの残党を一人残らず始末するという「最後の汚れ仕事」が描かれる。舞台となるのは1911年のアメリカとメキシコ。無法者の時代が終わり、文明の時代へと移りゆくなかで、かつての憧れだった「無法者」は、すっかり「過去の遺物」へと変わり始めていた。
ジョンの出自は少々複雑だ。スコットランド移民の農夫である父と、娼婦だった母(詳細は不明)のもとに産まれ、幼少期に両親を失ったことで孤児院に行ったものの、そこでもうまく適応できなかったが故に放浪生活を続け、12歳の頃にダッチに拾われ、それから長らく、ギャングのメンバーを本物の家族のようにして生きてきた。その後、ギャングの一員でもあった娼婦のアビゲイルと結婚し、息子であるジャックが生まれる。ゲームでは、ジョンは「ある時期」にギャングに裏切られたことで決別したことが示唆されているが、あえて言えば、裏切られたことで、ジョンは(半ば強制的に)無法者としての生き方から足を洗い、時代に適合することができたと言えるのかもしれない。
端から見れば、ジョンは「時代の変化に合わせて、(ギャングの残党のように)取り残されることなく、あるべき形に生き方をアップデートすることができた」ように見えるかもしれないが、『RDR』が描くのは「時代が変わったからといって、根本的な構造が変わるわけではない」という冷徹な事実である。
特に印象深いのは、ゲームの中盤にターゲットの一人であるビルを追って、メキシコを訪れる場面だ。あくまで「探している人物を探す」ためであれば一切手段を問わないジョンは、メキシコ陸軍と反乱軍という相反する二つの組織に対して、同時に手を貸すことになる。権力を振りかざし、欲にまみれ、反抗する民間人に躊躇無く銃を向ける(作中の)メキシコ陸軍の姿は、端的に言って独裁以外の何者でもない。
一方で、反乱軍に関しても、その指導者であるアブラハム・レイエスは(裕福な家の出身であることもあってか)平民をどこか下に見ており、性に奔放で、反乱を率いる自分自身の姿に酔い、周りが見えなくなっているところがある。だが、指導者に心酔するルイーザ・フォルトゥーナという平民の女性は、自らの命を投げ売ってでも革命を果たそうという強い想いに満ちており、彼女を筆頭に、革命軍には強い意志が感じられる。その狭間で、ジョンは淡々と依頼された仕事をこなし、軍人だろうと民間人だろうと「殺せ」と言われた相手をただただ殺し続ける。そして、その表情は常に曇り、どこか諦念にも似た印象を抱かせる。
物語の大筋は、「権力者であろうと、革命家であろうと、その実はそうは違わないのだ」という「GTA」のクリエイターらしい皮肉が込められているように感じられるかもしれないが、恐らく最も重要なのは別のところにある。仕事をこなす過程において、ジョンは陸軍と革命家のどちらにも同情せず、過度に肩入れすることはない(むしろ、それぞれの振る舞いを軽蔑を込めた眼差しで見つめている)。だが、唯一、同情を寄せているように見えるのが、平民のルイーザである。
ルイーザは、心の底からレイエスとその思想に共感しており、(彼の言葉もあって)いつかは結ばれると信じながら、命懸けで反乱軍に参加し、彼の窮地を救うほどの活躍を見せる。だが、当のレイエス自身はルイーザの名前すらロクに覚えていない(その様子を見るたびに、ジョンは「ルイーザだ」と注意する)。やがて、彼女の大きな犠牲を経て革命が成就した際に、ジョンがルイーザの活躍を指摘してもなお、レイエスがその名を思い出すことはなかった。やがて、彼はかつての陸軍とさして変わらないような独裁の道へと歩みを進めていくが、多くのプレイヤーはこの展開に驚かなかったのではないだろうか。
2000年に発売された『Voodoo』に収録されている「Devil’s Pie」という楽曲において、ディアンジェロは物質主義や欲望を求めて腐敗していく人々や業界と、その様子を見ているにも関わらず同じものを求めてしまう同胞(主にブラック・コミュニティに対して)を、「悪魔のパイ」という比喩を巧みに用いながら批判している。だが、他ならぬ自分自身も、やはりパイを食べたくなってしまう瞬間があることを認めていることが重要だ。力強い眼差しでシステムを批判しながら、同時に自身が垣間見せる「弱さ」と、楽曲全体に渦巻く混沌としたグルーヴで、この現実が持つ底知れない恐ろしさを複雑なままに浮かび上がらせている。
陸軍の面々やレイエスは、まさに「悪魔のパイ」を貪っている。一方で、「Devil’s Pie」を聴いていて最も感情が動かされるのは、「悪魔のパイ」が駆動するシステムのなかで、一切れのパイの誘惑に駆られながら生きる「持たざる人々」へと視線が向けられる瞬間だ。
〈一切れの悪魔のパイのために/若い女性がストリートで身体を売る/黒人たちがストリートで殺し合う(For a slice of the devil's pie / Little women in the streets sell her fuckin' body for a (For a slice of the devil's pie) / Ni**as killin' each other in the streets for (For a slice of the devil's pie))〉
それ自体に問題があることは重々分かっていたとしても、システムから完全に逃れることはできず、大多数の人々はなすすべもなく犠牲となっていく。上に立つ者がパイを貪り、ルイーザのような人々が、わずかな分け前すらも与えられることなく消費され尽くしていく。本編の中盤に用意された、このメキシコでの出来事は、『RDR』全体が内包するテーマをコンパクトで分かりやすい図式にまとめた、ある種のダイジェストとしての役割を持っているように思う。なぜなら、ジョンもまた、ルイーザと同様に、このシステムのなかで消費される人物に他ならないからである。
タイトルに「Redemption≒贖罪」とある通り、『RDR』で描かれるのは、かつて悪事に手を染めた人物が、その罪と対峙する物語である。だが、贖罪の舞台となる世界は、「果たして本当に罪と向き合わなければならないのか? それで何かが変わるのか?」と思うくらいには多くの問題を抱えていて、無法者の時代が終わろうとも、「悪魔のパイ」は変わらずそこにあり続ける。その現実を直視してもなお、贖罪を果たすため、あるいは未来へと意志を繋ぐため、主人公たちはたとえ自身の命を投げ売ってでも役目を全うしようとする。そうして、彼らは再び荒野へと馬を走らせる。
「Devil’s Pie」が収録された『Voodoo』は大きな反響をもたらし、特に収録曲の「Untitled(How Does It Feel)」のMVは、(当時、あるいは現代においても類のないほどに)ディアンジェロの持つ非マチズモ的な官能性を全面に打ち出したことで、セックス・シンボルとしての印象をこれ以上ないほどに強めることになる(本稿では詳しく触れないが、ジョンもまた、有害な男性性に溺れることなく、男性中心の社会のなかで生きる女性に敬意を抱いており、その点もディアンジェロの価値観に通ずる部分があるように思う)。
そうした期待を過度に意識した結果、アルバムリリース以降、2000年代中頃のディアンジェロは問題行動が相次ぎ、幾つかの犯罪を犯すに至ってしまう。それは、自身に寄せられた欲望に対する反発でもあったのだろう。この出来事は、ディアンジェロほどの才能をもってしても、消費のサイクルから逃れ、ただ「平穏に芸術を届ける」ことがいかに困難であるかを示している。
単純な勧善懲悪ではなく、その歪な構造のなかで「信念を持って生きる」ことの難しさや悲哀を淡々と、しかし濃密に描いた『RDR』のような作品は他にない。それは同時に、ディアンジェロが作品を通して描いてきたテーマにも通ずるものがあるように思えてならないのである。