吉田拓郎が音楽シーンに残した功績とは? みのミュージックとフォーライフミュージック・後藤豊が語り合う

みのと後藤豊が語る“吉田拓郎の功績”

みのミュージックが位置付ける「吉田拓郎」 後藤豊から見た「吉田拓郎」

ーーみのさんは“吉田拓郎”という存在を日本のポピュラーミュージック史のなかでどう位置付けているでしょうか?

みの:それまでの慣例や慣習を打ち破って、自分のやりたいことを実現してきた方ですよね。拓郎さんほどグラウンドブレイキングな人は、国内では前例がない気がします。今回の取材のために拓郎さんのキャリアを改めておさらいしたんですが、「ビートルズのドキュメンタリーみたいだな」と思って。ビートルズは作品と実際に起きたことがセットになってるところがあると思うんですが、拓郎さんもそんな感じがするというか。僕自身も動画クリエイターというアウトサイダー的なところにいるせいか、勝手に共感しちゃうんですよね。「この生き方、めっちゃカッコいいな」と。

ーー音楽性も活動スタイルもそうですが、たしかに既存の価値観を打ち破ってきた印象がありますね。

後藤:そうですね。僕が初めて拓郎を観たのは、1970年の新宿厚生年金のコンサートだったんです。そのときに「イメージの詩」を聴いて。「これこそはと信じれるものが/この世にあるだろうか」なんてことを歌う人がいるのか、と驚いたんですよ。当時は70年安保闘争もあったし、大学の授業もなくて。そういう時期に拓郎に出会ったんですよね。

みの:僕は実際にその時代の空気を吸ってないので解像度はだいぶ粗いんですけど、拓郎さんの登場によって、それまでのフォークが持っていたプロテストソングっぽい雰囲気が薄れてきたのかなと。そこから上村一夫の「同棲時代」の世界観とつながっていくというか。

後藤:そういう流れもたしかにありますね。当時の学生のほとんどは四畳半とか三畳の部屋に住んでいたし、喜多篠忠さんの(作詞による)「神田川」のイメージもあるのでただ個人的な観点で歌うときの切り口は(アーティストによって)それぞれ違いますし、そのなかで社会や政治との関わり、家族のことなどを表現していたんだと思います。まだ殺伐とした時代でしたからね。これは僕の個人的な体感ですが、学生時代、新宿の歌舞伎町で朝まで飲んで、朝6時くらいに伊勢丹の前あたりを歩いていたら、ネクタイをした男性2人に肩を叩かれたんですよ。何かと思ったら「こんな時間に出歩いているなら、自衛隊に入らないか?」と。高田渡の「自衛隊に入ろう」という曲はリアリティがあったんですよ。

みの:すごい話ですね。いまのお話を聞いて、「自衛隊に入ろう」をより深く聴けるような気がします。

後藤:そういう時代の雰囲気もありつつ、意外と楽しくやっていたんですけどね。拓郎は当時、高田渡や遠藤賢司とも仲が良くて。急にライブができなくなって、遠藤賢司さんに「代わりにやってくれない?」と連絡したこともありました。まだのんびりした時代でしたね。

ーーそれにしてもすごい名前がどんどん出てきますね。拓郎さん、高田渡さん、遠藤賢司さん。70年代に登場したフォークシンガーは、確実に日本の音楽の流れを変えたと思います。

みの:ミュージシャンの自主性の獲得ということで言えば、グループ・サウンズは“半・自立”みたいな感じだったと思うんですよ。自分の足で立ったのは、フォークが最初だったのかなと。

後藤:グループサウンズは芸能界とのつながりが強かったですからね。才能のある人はいっぱいいたんだけど、出てきた時代が不運だったというか。こんなことを言うと怒られるかもしれないけど(笑)。

みの:拓郎さんに関して言えば、実は音楽性も幅広いですよね。フォークという言葉が先行している感がありますが、その枠だけで語るのは惜しいと言いますか。ベストにも入っている「裏街のマリア」のR&B、ファンク路線もそうですが、和モノ・レアグルーヴ的な光の当て方もできるのかなと。

後藤:「裏街のマリア」は後藤次利さんのアレンジですね。もともと拓郎はR&Bなども好きで、広島時代のバックバンドがダウンタウンズという名前でそういうイメージがあったのではないでしょうか。本人はフォークというカテゴリに収められることすら嫌がっていたんですよ、じつは。生ギターと歌で登場したので、そのイメージが強いのかもしれないですが、僕らとしてももっとロック的なニュアンスを含めて受け取ってもらえたらなと思っていました。

みの:レゲエへの反応もすごく早かったですよね。おそらく国内最速レベルだったのではないかと思います。

後藤:レゲエは加藤和彦さんの影響でしょうね。加藤さんは泉谷しげるにもレゲエをやらせてましたから。(「君の便りは南風」1973年)後になって「あれはすごかったな」と思うことも多いですが、渦中にいるときはそうではなくて。明確なフィロソフィーやイデオロギーを持っていたわけではないし、若気の至りというところもありましたから。

ーー今回のベストには入っていませんが、名曲「結婚しようよ」も加藤和彦さんの編曲ですね。

みの:それもすごい話ですよね。

後藤:「結婚しようよ」をリリースした年に、四角佳子さんと結婚したんですよ。軽井沢の教会で結婚式を挙げたんですが、マスコミが大勢来ましてね。当時は芸能マスコミに寄り添う気持ちなんて毛頭なかったので、大変な状況でした。

みの:ジョン・レノンみたいですね(笑)。女性ファンのデマによって動けなくなったこともありましたよね?

後藤:ありましたね。金沢でとある事件に巻き込まれ、拘束されましてね。ライブが中止になったり、大きなダメージを受けました。拓郎自身もひどく傷ついたと思います。我々は大手プロダクションに属していたわけではないし、マスコミにも好きなようにやられましたよ。


みの:そういう不運な出来事も突破しながら活動を続けてきた、と。流石です。

ーー今回のベストアルバム『Another Side Of Takuro 25』は、フォーライフからのリリース。1975年6月に小室等さん、吉田拓郎さん、泉谷しげるさん、井上陽水さんが設立した「フォーライフレコード」は業界を震撼させた出来事でした。

みの:それまでの業界の在り方にケンカを売ったというか。すごいことですし、いろいろなご苦労があったと思います。

後藤:そうですね。ビートルズが設立したレーベル「アップル・レコード」の歴史を紐解くと、「ウチの会社と同じようなことがあったんだな」と思います。フォーライフは「私たちに音楽の流れを変えることができるでしょうか?」と大上段に構えて出発したのですが、現実的な問題にいくつもぶち当たりました。当初は「レコード店がレコードを扱ってくれないかもしれない」という状況だったんですよ。もしそうなったらコンサート会場で売る、あとは全く異なる流通を使うことを考えていたんですが、ニッポン放送やポニーキャニオンの代表を務めた石田達郎さんが「それはまずいだろう」と救いの手を差し伸べてくれて、迎え入れていただきました。当時、ディストリビューションを他に任せていたレコード会社はほとんどなかったですからね。流通や営業の仕事はクリエイティブに携わっている人間には無理だという認識もありましたし。

ーー日本の音楽シーンにおいては、まさに前代未聞ですよね。

後藤:70年代の初めにアメリカに行った経験も大きかったんですよ。拓郎から「ザ・バンドとツアーをやりたい」という話が出て、まずは現地に行ってみるしかないということになって。ニューヨーク州郊外までマネージャーのアルバート・グロスマンを訪ねたんです。

 彼はザ・バンド、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、ジャニス・ジョプリンなどのマネージメントをしていたんですが、そこでいろいろと話をして。ザ・バンドの来日は残念ながら実現しなかったんですが、向こうのレーベルの人たちとも話をして、「クリエイティブサイドだけを担って、ディストリビューションを任せる方法もある」ということを教わったんです。帰国後、それを小室等さんに話したところから(フォーライフ・レコードの設立が)スタートしたんじゃなかったかな。

みの:ザ・バンドと拓郎さんのツアーは叶わなかったけど、ビジネス的なアイデアを持ち帰ったと。面白いですね。

後藤:ウッドストックの会場も見たんですよ。何もない広大な原っぱですけど(笑)、「ここに40万人集まったのか」と。それが“つま恋”(1975年に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」)につながったんです。余談ですが、ジャニス・ジョプリンのサイケデリックなポルシェ356も見せてもらったんですよ。写真を撮っておけばよかったと、それだけが残念です(笑)。

みの:ホントですね(笑)。

後藤:もちろん行ってよかったですけどね。泉谷がロサンゼルスの(名門ライブハウス)トルバドールで公演してライブアルバム(『HOT TYPHOON FROM EAST (イーストからの熱い風)』)を作ったときもそうでしたけど、行かないとわからないことがたくさんあったので。なのでいまの若い人にも「どんどん海外に行け」と言ってるんです。いまは日本の音楽がリスペクトされたり、憧れを持たれているんだから、こっちからも出て行って、現実を見ることで「だったらこういうことができる」ということもわかるはずなので。サブスクの恩恵も大きいですね。マイナスの要素もたくさんありますが、それ以上にプラスの要素があると思っています。

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