AIボイチェンはバーチャルな存在に“魔法”をかけるのか? 「メタバース進化論」から2年後のバーチャル文化(後編)
「仮想世界を現実だと思えるという感覚」を誰もが獲得できるように
――最後に『メタバース進化論』の締めくくりのテーマでもあった「肉体からの解放」について伺いたいのですが、「ファントムセンス(※1)」の調査結果には変化がありましたか?
(※1ファントムセンス:VR体験中に得る擬似的な感覚のこと。触覚や味覚、嗅覚など反応する場所・程度は人それぞれだが、代表的なものとして「高いところから落ちたときの落下感」「他人の吐息で風を感じる」「アバター同士が接触したときに触れた感覚がする」といった例がある)
ねむ:ファントムセンスについては驚くほど2年前と結果が変わらなかったんです。全体的な傾向も、感じている感覚の種類も、感じる部位も、大きくは変わりませんでした。人口の急増にともないカジュアルなユーザーが増えたと思うんですが、こういった感覚的なものは意外と普遍的な傾向があるのかもしれません。
――身体的な反応はそうなのかもしれませんね。
ねむ:実は今回、マルタ大学の先生にレポート全体の総評を書いてもらったんです。そこで「ファントムセンスはVR体験の没入度合いの指標になるのでは」という指摘をもらいました。
VRの没入感って、実はこれまで定量的に表現する指標があまりなかったんです。その指標にファントムセンスが使えるのではという指摘で、なるほどなと思いました。どういう人がメタバースになじみやすいのかなど、今後の研究のきっかけになるとうれしいですね。「判定結果、メタバース適正A+! 今すぐメタバースをやりなさい!」みたいな(笑)
――急にSF感が出てきた。
ねむ:「え、私適正A+!? メタバースやるしかないじゃん!」といったように、自分の意外な才能がわかると面白いと思います。たとえば適正によって導入のアプローチを変えることで、メタバースをもっと受けいれやすくなるかもしれない。今はやっぱり、ハードルが高いじゃないですか。
自分自身の実感としても、ファントムセンスが指標として使える可能性は感じています。実は私も、VRをはじめたばかりのころは3Dの映像を見ているだけという印象で、今程の没入感は感じていなかったんですよ。それが、フルトラ(※2)をはじめて身体を自由自在に動かせるようになり、自分専用のアバターができ……と、深みにはまっていくにつれて現実と変わらない没入感が“芽生えてきた”んです。
VRへの没入感の変化を数値化することで、没入感を効率的に獲得する手法を確立して、「この世界を現実だと思えるという感覚」を誰もが得られるようにしたいなと思います。
(※2フルトラ:フルボディトラッキングの略語。身体に加速度センサーなどを内包した機器を装着することで、現実の肉体とアバターの動きを連動させる技術。代表的な機器としてHTC『VIVEトラッカー』Shiftall『ハリトラ』SONY『mocopi』など)
脳にまつわる科学の進化
――「肉体からの解放」といえばNeuralinkのニュースがありました。
ねむ:イーロン・マスクの話もしますか(※3)。
(※3Neuralinkとイーロン・マスク:Neuralinkは脳の信号で機器の操作などを行う技術「Brain-Computer Interface(BCI)」の実用化を目指す企業で、イーロン・マスクが設立した。2024年1月29日には人間の脳に小型機器を埋め込む実証実験を行うことを発表、3月21日には実際に機器を埋め込んだ患者の動画を公開した)
脳波でPCを操作できる“脳直結インターフェイス”搭載 世界初「Neuralink患者」の動画が公開
実業家のイーロン・マスク氏が出資しているNeuralinkは、脳直結インターフェイスの手術を初めて受けた男性の様子を動画で公開し…
――ねむさん的には、本当は“脳みそ直挿し”みたいなことが究極の理想なのかなと思うのですがいかがでしょうか。
ねむ:もちろんそうです(笑)。現状のVRは、やはりまどろっこしいですよね。究極的には「BCI」が理想だと思いますし、ついに人間に対してインプラントの実証実験がはじまったのはかなり大きい話だと思います。
『攻殻機動隊』の作中で「笑い男事件」(※5)が起こったのが2024年ということで、ちょうど最近話題になっていました。作中の世界と比べるとややビハインドしていますが、現実もいよいよ『攻殻機動隊』の世界に近づいて来たなと。イーロンはレーシック手術と同じくらいの感覚でBCIを埋め込めるようにしたいと言っています。Neuralinkも本気で民生化しようとしているし、たった数年でここまで来たというのは、すごい進歩だと思います。
(※4笑い男事件:脳を機械に直接つなぐ技術「電脳化」が登場するアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で描かれた、2024年2月1日に起きたとされる架空の事件。なお本インタビューは24年2月6日に行われている)
ねむ:ただ、BCIには「上り」と「下り」があるんですよね。脳の情報を機械で読み取る「下り」は実は昔からかなりのレベルに達していました。一方で「上り」、つまり脳に情報をインプットするのは技術的な難易度が高く、ここに大きな課題があると言われていました。
ただ、この間神経科学者の紺野先生と対談した際に聞いたんですが、難しいと言われていた「上り」の技術がここ数年で劇的に進化しているそうです。「上り」が難しかったのは、「信号をどのような形にエンコードすれば脳が理解してくれるのかわからない」ということが原因でした。それが、紺野先生が紹介してくれた近年の研究事例では、例えば、脳の表面に電気信号で絵を描くと、訓練すればどんな絵が描かれているかわかるようになったケースがあったそうです。これは衝撃的なことで、実は複雑なエンコードは不要で、脳の表面に直接描けばいいだけだったのかもしれない。
――そんな「背中に文字を書く」みたいな感じで……。
ねむ:脳ってすごいですよね(笑)。こういった劇的な研究の進歩を考えると、「脳にぶすってできる世界」もそう遠くない気がしてきます。メタバース経済と物理現実の経済の話をしたばかりですが、それを超えた世界が意外と早く実現するかもしれない。もう「水槽の中の脳」(※5)でいいじゃん、みたいな(笑)。
(※5水槽の中の脳:「人間の意識や体験している世界は、じつは水槽に浮かべた脳が見ている夢なのではないか」という仮説。映画『マトリックス』の世界観はまさに「水槽の中の脳」の話である)
「バーチャル美少女ねむ」はIPではなく、バーチャルな世界を生きる“一人の存在”
ねむ:紺野先生もそうですが、本を出して以降、専門家のかたとお話させて頂く機会が増えました。これはものすごく刺激になっています。「大学等で授業をしてほしい」という依頼も増え、最近では月一以上のペースで授業や講演を行っています。
国連や国の省庁の会議体に「バーチャル美少女ねむ」なんて怪しさ満点の存在が呼ばれるようになるなんて、人類はすでに進化していると思いますよ(笑)。一昔前では完全に“珍獣”扱いでしたから、考えられなかったことです。
以前は企業からメールを頂くときも「バーチャル美少女ねむ 運営様」という書き出しだったんですけど、今は「バーチャル美少女ねむ様」と、一人の存在として認識してもらえるようになって、すっかり変わりました。バーチャルな存在が、きちんと“生きている存在”と見なされるようになったのは本当にすごいことですよね。
――そういえば最初に連絡したとき、ねむさんからの返信には「バーチャルねむ運営」と署名してありました。
ねむ:前述した経緯もあって、当時は私自身もそう書かないといけないと思っていたんです。あれからほんの4~5年で全然違う世界になったなと思います。だからこそ調査のスナップショットを残しておくことに意義がある。日本は世界に先んじてバーチャルの文化が広がっていると思うので、今度はそれを世界に発信していきたい。少子高齢化だけが日本の輸出物だなんて、悔しいじゃないですか。
――そんな課題先進国みたいなことばかりじゃなく……。
ねむ:これからはバーチャル先進国でいきましょう!
むすびに
ブームが去って一段落かと思いきや、順調に規模を拡大しているというソーシャルVR。AIをはじめとする技術の発展・普及も加わり、「バーチャル文化」はまだまだその進化を止めていないようだ。各分野の専門家と交流しながらパワーアップを続けるバーチャル美少女ねむ氏とともに、その行く末にも目が離せない。
■関連リンク
『メタバース進化論 ――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』(技術評論社)