『たけしの挑戦状』はなぜ北野映画の原点なのか? 歴史的“クソゲー”に見る、北野武の作家性
「発売の前日にたけしがフライデー襲撃事件というスキャンダルを起こした」、「攻略本を出していた出版社が、あまりのクレームの多さから担当者が死んだことにしていた」など数々の逸話を持つ伝説的な“クソゲー”『たけしの挑戦状』(86年)。
元祖クソゲーとも言われる本作は、ビートたけしが開発段階からアイデア出しに携わった作品であり、後に国内外で高い評価を受ける北野映画の原点としてもしばしば論じられる。
しかし、具体的にどのよう点において『たけしの挑戦状』と北野映画は関わり合っているのか。この記事では北野映画の中でも特に『ソナチネ』までの初期4作品を中心に、ビートたけし/北野武の作家性を考察したい。
『たけしの挑戦状』は1986年にタイトーから発売されたゲームであり、ジャンルとしてはアクションアドベンチャーに分類される。バーで飲む、カラオケで一曲歌う、映画を観る、パチンコを打つ、ヤクザと喧嘩するなど、行く先々で様々な行動が可能で、ある意味での自由度の高さからは後の『龍が如く』や『GTA』(グランド・セフト・オート)シリーズとの関連も見いだすことができる。
ストーリーは会社を辞めたサラリーマンが南海の島へ旅立ち、そこで宝を探して一攫千金を夢見るというなんとも荒唐無稽なもの。プレイヤーはほぼノーヒントのまま退職金を受け取り、妻に離婚届を突きつけて南海の宝島を目指すことになる。
「カラオケで特定の曲を3回連続で上手に歌う」、「白紙の地図を貰ってから一時間コントローラーを触らずに放置すると、地図が浮かび上がってくる」のような事前情報なしではおよそ攻略不可能な展開が数多く存在するため、インターネットもない当時、多くのプレイヤーがコントローラーを投げたのは想像に容易い。『たけしの挑戦状』は、あまりにも難しすぎた。
北野映画との共通点
さて、北野映画のなかでも『その男、凶暴につき』『3-4X10月』『あの夏、いちばん静かな海。』『ソナチネ』の初期4作品は、極端なまでのセリフの少なさが特徴として挙げられる。沈黙の連続によって作り出される独特の間は、北野映画の魅力のひとつだ。
『たけしの挑戦状』でセリフが少ないのは、ファミコンソフトの容量の問題も大きいだろうが、それでも町ですれ違っただけのNPCが何の言葉も発さずに、突如殴りかかってくるのは異様としか思えない。セリフが少ないことで『たけしの挑戦状』は、その不条理さをより強化している。
また、このゲームはプレイヤーに対しても極端に言葉足らずであり、ゲームの進行に必要な情報がゲーム内で開示されることはほぼない。『たけしの挑戦状』はプレイヤーとのコミュニケーションを徹底的に拒んでくる。北野映画も『たけしの挑戦状』も、我々に他者との根本的な通じ合えなさを突きつけてくるのだ。
ドライかつ身近な死
北野武の最高傑作と名高い『ソナチネ』のワンシーンに、スナックで飲んでいた主人公たちヤクザが、突如現れた対立する組の刺客と銃撃戦になるという場面がある。ビートたけし演じる村川は拳銃を取り出して反撃するが、身を隠したりはせず無防備に拳銃を持った手だけを突き出して撃ち続ける。
村川は死を恐れていないどころか、むしろ自殺願望さえ抱いている。そして村川の周辺人物もまた、同胞が死んだからといって特別騒ぎ立てたりはしない。『ソナチネ』において死は死そのものでしかなく、なんの意味づけもされないのだ。
このようなドライで唐突な死は、「しねっ」の一言で殺される、あいさつしただけで釜茹でにされる、カラオケで上手に歌っただけでヤクザをけしかけられる、など『たけしの挑戦状』でも多くの場面で体験できる。
いつ訪れてもおかしくない死の身近さからは、北野武のニヒリズムのようなものを感じざるを得ない。